2011年 4月10日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「覆われた危機の祈り」
聖書箇所 ルカによる福音書12章13−21節
一昨日も震度6と言う大きな地震が東北地方を襲った。心が震え、たび重なる試練の人々のために祈った。地震、津波、放射能不安、続く余震。若き日に東京で学んだ学友は色々な地方から来ていた。その地方の言葉、性質、持ち味、生き方の特徴がある。いちばん身近な親友で東北の仙台の被災地出身の人がいる。風土が人柄や生き方を決めると言われるが、この友と一緒にいて東北人の気性が分るような気がした。一言で言えば“忍耐強い人”である。祈りの人である。授業中、時々、居眠りをするので先生が、早天祈祷を止めなさいと言われても、毎朝5時には起きて祈る祈りは止めなかった。“祈りは私の命”であるというのである。友が病気で“祈り”を頼まれると一人、校庭の隅で徹夜で祈った。祈りの人であると共に“人情深い”思いやりの人でもある。そして口が重い。東北は雪国であり、冷害に悩まされ、海岸は津波の災害を伝承されてきた。幾度となく襲う災害に忍耐して再興してきた。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている・・・みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしは なりたい。」宮沢賢治の詩に東北の風情が集約されている。東北の歴史は自然との闘いの歴史であり、そこに住む人々はそれを克服してきた。その希望が生かされ、凡ての人が、人間性を取り戻す機会として東北の悲しみを悲しみとし、苦悩を分かち合おうではないか。試練や困難の中で人は、生きることは忍耐することであり、助け合うことを学ぶ、本来の人間性を取り戻すことが出来ることを学ぶ。人生を考えることのチャンスとなる。静かにイエス様の言葉に耳を傾けなければならない。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)人は、財産に執着するものである。執着は欲望に繋がり、欲望に自己執着するようになる時、それは貪欲となる。日常では貪欲は心の奥深く、意識されない欲望である。自分だけの満足、充実感、幸福、安全、喜び、自由など。それは、それ自身は善悪ではなく、人の生きる大切なことである。しかし、人は、人と共に生きることなくして生きることは出来ない。家族なくして人の生活は成り立たない。家族を失っても、家族に代わる人がいなくては人は「生きる」ことは出来ない。この世の中で人と人とが繋がり、生きている。「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:14)愛は、人を完全に結びつける「絆」であるのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも(考えなさい。口語)注意を払いなさい。」(フィリピ2:3,4)とある。“他の人に注意を払う”“考える”これを阻害するのは“利己心”であり、“虚栄心”であると指摘している。確かに人は、自分のことか、他の人のことかの重さで、人として生きるか、人間を捨てるかを選択することになる。
イエス様はここである金持ちの例を示される。思わぬ収穫でさらなる財産を築いたこの人は「『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」(ルカ12:19)という生活をする。その時、「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」と語られている。人生の終わりが来る時、全ての物を失うことになる。そこには孤独、悲哀、消滅への不安が残るだけではないか。しかし、「神の前に豊かに生きる」(ルカ12:21)生きることを勧められる。神の豊かさは、神の愛で生きる豊かさである。キリストの十字架で示された犠牲の神の愛そこにこそ人の命を回復する道がある。人の心に神の愛があるところに希望がある。困難の中に、苦しみの中にありながらも神様と共に、神の愛に生きるところに希望がある。危機の中にこそ人の真実の叫び、「祈り」が生かされる。「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(コリントU6:9−10)
「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。」(ロマ4:18)

 
【今週のみことば】
ヨハネよる福音書14章27節

 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。


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