2011年 4月24日 礼拝メッセージ 
2011年復活祭
メッセージタイトル 「確かなる幸せの希望」
聖書箇所 ルカ23章50節―24章12節
キリスト教信仰の中心であり、土台はキリストの復活にある。キリストはご自分が復活されるということによって、人々に復活の約束を語られた。死後の復活は誰ひとりとして信じることは出来なかった。イエス様は弟子たちに「人の子(イエス)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ24:7)と語られている。また、ヨハネの福音書11章ではラザロの死に直面した時、姉のマルタにイエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)ここでイエス様が約束されている事は、イエス様を信じることによって見えてくる希望である。
死という現実の経験は生きている者が避けて通れないことである。「決して死なない」と言う言葉は、イエス様を信じる人は、永遠の命に生きることを指している。「死」は、悲しみ、不安、絶望、離別、終焉、消滅、これが現実の人生の幕引きである。存在の終りが、時の終わりであり、時を克服するものは「永遠者」であり、死を克服する者は「生命者」である。「神様」こそは「永遠者」であり、「生命者」であるのです。人間は、繰り返す現象を「自然」として疑うことなく受け入れる。死は、「自然」であるとすれば当然な「自然」として「納得」するのが「自然のなりゆき」であるはずです。しかし、どのような人も「納得」出来ません。死は「自然」なのですから、当たり前のこととして平然としていられるはずなのです。しかし、割り切れない気持ちで悩み、苦しみ、どうして死ぬのだろうと「自然」にはなりえないで、心のどこかで死に直面して「不自然」を実感するのが現実です。それは人間は霊的存在であるからです。「死」は起こってはならないことが「自然」な人の思いであるのです。霊的存在としての自己に目覚めない時に「死」は絶望と不安の迷いの中で人生を終わることになります。その根本的な自己喪失を聖書は人間の不自然な「死」が、「罪」との深い関係にあることを教えています。「罪」とは本来的に人間が神から離れてしまっていること、それが「罪」ある存在であり、「罪」を犯さずに生きられない現実となっている事を示しています。「罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ロマ5:12)。この現実は「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ロマ7:15、17,18)と言う言葉で表しているように人間は「罪」の中で、「罪」に支配されている事を示しています。その根本は創造主なる「神様から離れた存在」を「罪」と示しているのです。人間は、霊的存在であるのです。霊的存在とは神が永遠であるように、人も永遠のいのちの存在であるのです。
人が、永遠の命を回復する道は、「罪」を解決し、神様との交わりを回復することにあります。神様から差し出された保証でしか道はひらかれません。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)と教えています。 永遠の命は、イエス・キリストの復活によって保障され事実として希望を与えることになります。人間は、「死」で終わるのでなく、輝かしい復活のいのち、霊の体が復活することによって確かなる永遠の命の道が開けてくるのです。 イエス様は、「復活」の出来事をその「死」を通して証しされました。(コリントT15:3)永遠の命はこの復活の事実においてゆるぎない人々の希望と成っているのです。イエスは言われます「わたしを信じる者は決して死なない」(ヨハネ11:25)。如何なる人生の中でもそこに確かな「平安」があるのです。「わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:26)この約束こそ、イエス様の復活の事実に基づいているのです。キリストを信じる時に、現実の中で「永遠の命」がゆるぎない確信の希望として平安と喜びとして体験されるのです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄となってしまうのです。
「わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(コリントT15:14−19)「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(コリントT15:3−5)

 
【今週のみことば】
ヨハネ11章25節
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
 


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