2011年 5月1日 礼拝メッセージ 
東日本大震災の復興のために祈る
メッセージタイトル 「共に歩まれる主」
聖書箇所 ルカよる福音書24章13―35節
「孤独」こそは、人の不幸であるという。いやな人付き合いを避けて、趣味に没頭して生きたいというようなことを言っても日常からの逃避でしかない。親が死んでもかくして年金をあてにする人がいる世情になっている。百歳以上の人口が十四万人になっているという統計も信じがたいという人もいる現代社会である。今年になって政府は「高齢者見守り委員制度」を地域社会に進めている。絶縁社会と言う言葉があるように全く身寄りのない人が30万人もいると言われている。孤独死されることが多く、淋しく、悲しい出来事である。死後は隣近所、町会の役員さんが世話をし、市役所と連携して見届けることになる。
イエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ16:28)と言われているように例外なく「だれでも重荷を負っている人、疲れている人」である。この人たちが「休み」を得ること「安心」を得る人とは、負っている重圧、疲弊している心を解放することが出来る人でなければならない。その人は、話すことが出来る人、相談できる人、力になってくれる人である。
ルカによる福音書の24章には、エルサレムで最期を迎えられ、予告されていた通り三日目によみがえられたという人々の証しを聞きながらも、現実にはイエス様に望みをおいていた二人の弟子が」無理解と弾圧の渦の中で不安を持ってエマオの途上にあった。イエス様が他民族の支配と搾取と弾圧から解放し、イスラエル民族の独立と理想を実現されると期待していたのが崩壊して行く現実にイエス様の真意がよくわからなくなっていた。一人の人が近づき話し合って歩いている二人に語りかけられたので、エルサレムの出来事のいきさつを話した。その人がイエス様であることが解らなかった。イエス様は彼らにエルサレムの出来事を聖書全体から解き明かされた。不思議に思いながら二人はその日は、一緒に泊まってもらって話を聞きたいと思った。そして泊る家に入り、夕食をしようと賛美をして祈られ、そしてパンを割いてわたされる時、二人の「目が開け」てイエス様だと解ったと記している。「目が遮られて」(16)いることは、おそらく二人の弟子たちは心の中でイエスの甦りを半信半疑であったために、目の前の人がイエス様であると認められなかったのであろう。しかし、その交わりの話の中でイエス様の言葉に心が目覚めさせられ目の前にイエス様がおられることを認識して驚愕すると共に現実には姿が見えなくなっていたのであった。
このルカによる福音書が読者に語ろうとするメッセージは、イエス様を信じる者には共においで下さることを語っているのである。甦りの約束は未来にあるにせよ、それを信じることによって今、信じる人の心に永遠の命、即ち、イエス様が共にいて語り、聴き、導き、支え、慰めと確信を与えて下さることによって「永遠」を「今」に、「神の国」が「今」にあることを約束しておられるのである。「人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。“ここにある”“あそこにある”と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」(ルカ17:20,21)このメッセージは、第一に、イエスは今も共にいて下さる方である。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブル13:8)「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)第二に、エマオの途上で弟子たちが共にいて下さるように願った時、共に行動して下さるのである。そして教え、真理を示し、信仰の約束を導き完成される方である。(ヘブル12:2)第三に、教え、導き、その言葉を信じる者に約束を成し遂げ、支え、完成して下さる恵の生ける主であるのです。そこには孤独はなく、不安もなくなるのです。希望と確信と平安が、喜びの実を約束しているのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネ15:15)

 
【今週のみことば】
マタイ28:20
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


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