2011年 5月15日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「人生の喜びと希望と力」
聖書箇所 マルコによる福音書16章14−20節
人生には喜びが不可欠です。人生には目的がなければなりません。人生には生きていく力が必要です。使徒パウロは「いつも喜んでいなさい」(テサロニケT5:16)と言っています。人は、いつも喜べることばかりではありません。辛いこと、苦しいこと、悲しい時、「いつも」どんな時にも「よろこぶ」ことは不可能であると言えます。聖書の言葉が「…しなさい」と言う時、その言葉の裏に「してあげよう」と言う約束があるのです。神様を信じる人に「希望はわたしたちを欺かない(失望に終わらない)」(ロマ5:5)と約束されています。キリストによって真実なる創造主なる神が約束されているのです。
イエス様の弟子たちは、キリストの教えとその行動をつぶさに見、生活を共にしてこの方こそは「メシヤ」救い主であり、ユダヤの王であると思っていました。人々は共鳴し、集まってきました、しかし、現実の流れは敵対する勢力の弾圧と迫害であったのです。イエス様は、神の愛を説き、悔い改めと神の許しを得ることこそは人を完全に結ぶ絆であることを示されたのです。皮肉にも、神であるがゆえに愛し、愛するがゆえに赦し、無謀な裁きに堪えて十字架の苦しみを受けて死なれたのです。戦いには戦い、憎しみには憎しみ、略奪には略奪ではなく、迫害する人を赦し、赦すのみならず祝福するのがキリストの{愛}の教えであり、イエス様の生、そのものでした。それは神様が人を愛し、如何なる犠牲をも払って救うこと、如何なる時のも希望に生きる約束であるのでした。イエス様は「私は、よみがえりであり、命である。たとえ死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と約束されていたのです。現実に、十字架の「死」で終わったイエス様は、復活されたのでした。
この復活こそはまさに信じがたいことであったのです。しかし、現実の中で復活されたイエス様に出会う経験からそれが確信となり、希望となって行ったのです。そして、やがて五旬節の日に起こる聖霊降臨の経験を通してイエス様の出来ごとの確かなる福音の理解がキリストの教会の誕生となったのです。イエス様が復活されて弟子たちに最後に云われたことは「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。」(マルコ16:15)であるのです。
第一に、クリスチャンに与えられている希望は「福音」に生き、「福音」を伝えることです。福音とは、神の国の実現であるのです。神の愛と平和が現実に経験できることにあります。神の国は未来にあるのでなく、イエス様を信じる信仰によって、現実に中で、一人一人の心の中に「神の国」は始まるのです「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マルコ11:20)。人生には「神の国」を生きる、建設するという目的があるのです。目的がない、的外れは聖書の言語ではハマルテァーと言って「罪」と言う意味になります。目的とは「神の国」に生きる。神の御心に生きる。神の栄光を表すことになります。
第二に、神の御心に生きることは、神の恵みを体験することです。生かされている喜び、生かされている楽しみ、生きることは「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜び喜ぶことにある。」(人の目的、ウエストミンスター問答書)。災害で人が救助されることほど嬉しいことはない。医療関係者が人を助け、治療が成功するときの喜びは充実しています。ある時、自殺を試みた婦人が担ぎ込まれました。刃物で腹部を切り裂いたのでした。名医と言われる外科医の先生は、難しい傷をなんとかして縫合して一命を取り留めました。人々はさすが名医であると称賛して喜びました。しかし、その女性の心は癒されず、数日後、服毒自殺をしたのです。人はいかなる理由があっても心の悩みを解決しなければ生きられないことを物語っています。真実に心に平安があることこそ重大なことです。福音は人を生かし、希望を与えるのです。
第三に、生きる力です。目的を持ち、その使命に生きるところに意欲が湧いてきます。使命によって与えられるいのちです。いのちこそイエス様が共にいて下さる体験です。
「わたし(イエス)は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊(イエス)である。」(ヨハネ14:26,27)勝利の主が共にいて下さる。聖霊の力は、復活の力であり、キリストに表された神様の力が、信じる人の信仰によって証しされることを約束しているのです。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フイリピ4:11−13)「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(コリントU6:8−10)

 
【今週のみことば】
マルコ16章15節
「全勢会に出て行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えよ」
 


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