2011年 5月29日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「信仰が生む賛美の祝福」
聖書箇所 コロサイ人への手紙3章
人は「信じる」ことによって生きることが出来るのです。「信頼」と「愛」は密接な関係にあります。信じる心は愛されることによって育ちます。どのような人でも生まれて母親にはぐくまれて育ちます。母親の優しさを通して人は愛することを身につけて行きます。お乳をもらいムツキの世話をしてもらい心安らかに眠るのです。空腹と不快感は泣くことによって気持ちを表します。愛情の欠如は心を不安に陥れ、性格を歪(いびつ)にし、自分以外のものを信じることが出来なくなります。多かれ少なかれ幼少期に過ごした愛情を受ける度合いが一生、人の性格を型作るというのが今日の心理学的な人の見方であると言われています。
信じられないことは自信をなくすことになります。不安は迷いとなり、混乱を生みます。行ってはならない道にまよいこみ、自分を守るためにしてはならないことをしてしいまします。それが罪であり破滅であるのです。自分を愛し、守ってくれる信頼できる人がいないのです。人格医学を提唱し、精神療法を中心としてきた内科医のP.トルニエはその著書「人生の四季」の中で、人の人生は冬で終わる儚いものではなく、ある時、突然、春になる経験もあることを紹介しています。80歳を越えた老人がキリストに出会って「私は、今生まれたばかりのみどり子の様な気がする。私の人生は今始まったのだ」と言うのです。春の思春期も、夏の壮年期にもその時々の経験はあるのですが、人間は時間を越えて生きることの中で、創造主なる神に出会って真実に人間性を取り戻すと言っています。トルニエは神に出会って初めて、人は人生の目的と意味を見出すようになると言っているのです。
創造主なる神に出会って、生かされている自分、愛されている自分を発見するのです。イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われています。「神を信じない」ことから起こる不安と混乱は罪悪の現実であるのです。その現実の「罪悪」の罪を悔い改める、即ち、イエス・キリストによって現わされた身代わりの贖罪の犠牲を信じて罪赦されることによって神様の「愛」を経験するのです。「新しく生まれ変わる」と言うことは、現実の罪を悔い改め、「神に愛されている自分を発見」することにあるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
神を信じる信仰よって愛されている喜びが与えられるのです。心に平安が生まれ、希望が生まれます。人生の勝利者の自覚が生まれると言えます。使徒パウロは「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:2−5)と言っています。 そこでは、日々の生活に「喜び」と「感謝」が信仰の証しとして生まれてくるのです。心の感動は神の恵みの尊さ、愛の偉大さ、素晴らしさは賛美となります。「賛美」神様の栄光と誉れを歌う歌にほかなりません。「信仰」の祝福は賛美となるのです。
賛美は信仰の告白です。賛美は勝利の宣言です。賛美は献身の証です。賛美は喜びであり。感謝であるのです。賛美は祝福の証であるのです。
“イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。”(ヘブル13:15)

 
【今週のみことば】
ヤコブ5章13節
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。
 


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