2011年 6月5日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「力に満ち溢れて」
聖書箇所 ルカによる福音書24章44−49節
キリストは弟子たちへの最後の言葉として「あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:48−49)と言われています。ここには三つの約束があります。1、キリストの証人になる。2、神の送られる「力」を受ける。3、都に留まって待つこと。言換えれば、キリストの証人にされるための力、即ち、「霊的いのち」を受けることです。「都」とはエルサレムであり、神の臨在を表しています。神様をひたすら崇め、待ち望む場所であると言えます。神様を信頼し、待ち望み、同じ思いにある弟子たちを一つにすることにあったのです。正に、イエス様の最後の祈りが「彼らを一つにしてください」(ヨハネ17:21)であったのです。そこで、イエス様が示された教えと十字架の出来事と復活の意味を明確に体験的に理解する「力」を与えようと約束されているのです。弟子たちは十分にイエス様の十字架と復活を理解していなかったのです。その「力」こそは「聖霊が降ると、なたがたは力を受ける。」(使徒1:8)と言われています。その「力」こそは「私の証人となる。」(:8)ことであったのです。「証人」はイエス様の出来事の意味を「証し」出来るようになったのです。「力」、即ち、聖霊を受けた時、「キリストこそ、全世界の罪を償ういけにえである。」(ヨハネT2:2)ことを確信出来たのでした。確信は、告白になり、人々に語る「喜び」になるのです。弟子たちは聖霊を受けることによって、共にキリストの救いの確信に入れられ、魂の解放、救いの「喜び」は、人々に語り伝えなければならない衝動に動かされていったのでした。使徒言行録の2章の聖霊降臨の出来事こそは弟子たちが「救いの確信」と「復活の希望」、神様の愛と希望を見出した「喜び」の時となったのです。このキリストにある弟子達の共同体こそは教会の誕生であるのです。キリストはキリスを信じる者と共に、臨在されるのです。そして、キリストの使命がそこで弟子たちによって広められることになるのです。そこに生けるキリストの教会があることになります。
キリストを信じる人々の群れ、教会には聖霊が満ち溢れ、生けるキリストの「力」、即ち、「いのち」が満ち溢れているのです。そこには二千年前に起こったペンテコステ(聖霊降臨)の日と同じように信仰が生み出す「力」が約束されているのです。この「力」は、三つの内容を持っているのです。
その第一は「喜びの力」です。第二に「信仰の力」。第三は「祈りの力」です。
「喜びの力」とはキリストを信じる人に与えられる根本的、基本的な霊的生命となる経験です。使徒言行録の16章にはフイリピで伝道するパウロとシラスの試練の出来事が記録されます。パウロが、祈梼占い師との衝突で狂っている祈梼師を正常にさせたことが、それを商売にしていた雇主の告訴でパウロとシラスは投獄されてしまいます。獄中でパウロとシラスは賛美して祈っていると大地震が起こり、牢屋は倒壊して扉が解放されます。囚人たちはこれを機会に逃げたと思い、看守はうろたえて自害しようとしました。パウロは「自害してはいけない」ととどめて囚人たちがみんないることを告げたのでした。このような時は囚人は逃げるのでしたが、逃げなかったのです。おそらくはパウロが賛美し、祈る姿に感銘し、囚人たちはパウロの言葉を聞いていたのです。彼らはパウロの敬虔な姿と言葉におそらく感動してこの突然の出来事の中で沈着にして脱獄をしなかったのです。看守は、命拾いし、感動してパウロの前で「どうしたら救われるのでしょうか」と尋ねるのでした。その答えは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)であったのです。そして、看守は二人を家に招いて御馳走してもてなしたのでした。「この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」(使徒16:34)
誤解と迫害の中にあっても平安と感謝がある。そこにはキリスト信じる者の「喜び」がある。確固たるキリスtの恵みの「喜びの力」が人を助け、喜びを与えることが出来たのです。
第二に、「信仰の力」です。イエス・キリストへ信頼が、大きな力となっているのです。イエス様は「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハネ14:12)と言われています。キリストを信じる時に、どのような困難や試練にも解決の道が開かれると約束されているのです。「、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)と使徒パウロは言うのです。
第三に、「祈る力」です。信仰が生かされる道は「祈り」です。聖霊は祈りにおいて私たちの生活に働いて下さるのです。祈るところに信仰が生かされます。生きた信仰は「祈り」によって証しされるのです。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ5:13−15)信じる信仰は祈りによって生活の中で見えるようになるのです。具体化するのです。勝利は常に主と共にあるのです。

 
【今週のみことば】
使徒言行録1章8節
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
 


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