2011年 6月12日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「かけがえのない人生の充実」 
聖書箇所 ルカによる福音書15章11-24節
聖書の中に「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)という言葉があります。“富”に執着することを云っています。口語訳では“宝”と表現しています。宝のあるところに「心」があるというのは、心が捕われる、気もそぞろ、そのことを中心に生活があるということになります。言換えれば、“かけがえのない”ものとなっているのです。生活を動かす舵になっているのです。よくよく考えてみると、自分が全く価値を自覚していないものの中に限りなく、“かえがたく”大切なものがあるのに気づかないことがあります。人生は一回限りです。繰り返しは出来ないのです。確かに人の一生は自分で得るもの、失うもので幸、不幸にもなります。また、この世の流れの中で経済混乱、戦争、災害などが人生を破綻させることもあります。イエス様は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マタイ16:26)と言われています。
ルカによる福音書には有名な「放蕩息子」の話があります。裕福な農園を営む家族に2人の息子がいます。弟息子は都会の派手な生活に魅力を感じていました。何不自由のない豊かな生活で田舎の味気ない生活にうんざりしていたのです。家はどうせ兄が継ぐのであるから、自分の財産分与分をもらって都会に行こうと決心するのです。父親は、この浅はかな弟息子を説得しますが、言うことを聴かないので受け入れてやります。弟は、早速都会に出て、全く田舎と違った享楽の生活に入り、金を持っているこの息子に人々が集まります。やがて金はなくなり、時悪く、飢饉となります。昔は経済基盤は農業であったので大変な社会混乱になります。弟息子は遊び友達を頼りますがだれも見向きもしません。思いあまって養豚する人に手伝わせてもらって豚の食べるイナゴマメを食べ、綺麗な服もボロボロになり赤貧の惨めさに呻吟するようになるのです。その時、父の家には今までどんなに飢饉でも蓄えがあり困ったことはなかったことを回想するのです。父の云うことを無視した自分の愚かさに気が付き、自分の罪深さを自覚して悔い改めて家に帰りました。父は失った息子を待っていました。悔い改める哀れな息子を抱きかかえて受け入れるのでした。
この話には人の“かけがえのない人生”について大切な教訓があります。第一に、持っている大切なものを自覚しない愚かさです。その結果、不信、争い、分裂、対立、絶交など生じることになります。父の言葉に“信頼”して従う時、そこには感謝、喜び、平安、敬愛の情が人の絆なって幸となるのです。これは神様と人間の関係の在り方を教えているのです。言換えれば、人と神様との関係が失われる姿を教えているのです。第二に、この惨めさを自覚できたのは悲惨な試練の中にある時でした。貧困、孤独、人間性を失った屈辱の中で“真実の道”父の家に帰る道を見出したのでした。「試練は神に出会うチャンスである」と言われます。第三に、壊れた関係、父の家に帰る資格はない、罪深い自分に気づいたのです。居るべき所から離れ、してはならないことをしたのでした。間違いに気付いたのです。罪を自覚したのです。罪から離れる決心をしたのです。第四に、息子は赦されないかも知れないという不安がありました。父なる神様は愛である。(ヨハネT4:8,16)その愛は、限りなくいとおしむ無限の愛である。大きく手を開いて迎える“赦せる方”であることを教えているのです。「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(マタイ18:22) 第五に、父は、放蕩のすえ落ちぶれ息子、貧困と垢にまみれ、やつれた息子を無言で抱きしめ、頬をすりよせた。それは深い愛、無限の赦しを意味したのです。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される。」(マタイ12:31)父は、死んだような弟息子が帰って来た喜びに豪奢な宴会をしようとします。しかし、律儀な兄は、弟への父の愛の気持ちを理解できないのです。父は言います「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ15:32)
“かけがえのない人生”は神様を信じて如何なる時にも{充実}したものとされるのです。そこに「かけがえのない充実した人生」があるのです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)

 
【今週のみことば】
ヨハネT2章5節
しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。


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