2011年 7月3日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「福音の喜びの力」 
聖書箇所 コリントT9章22−27節
何でも打ち込めるものがあることは魅力的なものです。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」と言える魅力はどこにあるのでしょうか。「福音」が人をそこまで動かす力は何でしょうか。福音は言うまでもなく「良いニュース」です。嬉しいことやよいことは他の人に知らせたくなるのが人の気持ちです。「福音は平和である」(エフエソ6:15)と云うのです。平和の和解、平和の道筋、平和の鍵が与えられたのです。60年前に日本はアメリカとの戦争をしました。国と国との意見がこじれ、利権の争奪の中で戦いは始まったのです。勿論この戦争は19世紀からの世界的な帝国主義的な利権争いの延長にあったと言えます。国内で三百万人、海外で三百万人の人々が死んだと言われています。そしてアジアでは六百万人の人々が犠牲になったようです。最後は広島、長崎の町と人を壊滅させたのです。食べる物もなく、住む家もなく、働く職場も失い人々は路頭に迷いました。戦後60年、不死鳥のように日本は甦りました。しかし、安定した社会となり、物質的な生活は世界最高レベルになりながら、現実は、犯罪の凶悪化、政治の腐敗が社会不安となっている。少子高齢化の中で家族が失われている。人間の戦いは終わるところがないのです。よく考えるとこの世は人が動かし、人は、人の心で動かされるのです。
イエス様は「「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。(マルコ1:15)神の国の実現のために「悔い改めて福音」を信ぜよと言われるのです。実は、外なる世界でなく、一人一人の心の中で神の国が実現することによって神の国は拡大することになります。神の国は平和を人の心に実現することによって希望となります。
人は、神様から離れて、果てしなく「罪深い」のです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ロマ15−19)と使徒パウロは記しています。人間は本質的に「罪深い」のです。だから人の世に混乱と争い、犯罪、不安が絶えないと言えます。主イエスは「悔い改めよ」と云われるのです。
神様の真実の正義と愛を見失っているところに根本的な罪の根があることを指摘されます。罪は、贖われって解消されます。イエス・キリストは御自分を犠牲にして神の赦しの真理を示して下さいました。ヨハネ福音書3章16節の言葉に表されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)一人の人の幸せのために犠牲を払って下さるのが、イエス・キリストの十字架の出来事であったのです。神の国、神の民とされた喜び。真実の平和を確信した恵み、喜び。失った国が甦り、独立した感激であるのです。この喜びが力となるのです。支える力、希望の力となるのです。そのために生きる。命をかける喜びなのです。
「福音のためならどんなことでもする」「どんなことで出来る」人々にこの神の国の平和の喜びを伝えるために。幾人かでも伝え知ってもらいたい。体験してほしい。クリスチャンの喜び、それはイエスの福音を伝えることです。

 
【今週のみことば】
コリントT9章23節
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。


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