2011年 7月17日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「キリストの愛の力」
聖書箇所 ヨハネによる福音書7章3−11節
人は誰でも幸せに生きたいと思うものです。挫折や失敗は自分の外からの原因と、自分の内面的な問題から来ることがあります。いずれにしても、様々な出来ごとを乗り越えて、克服して解決し、新しい道に進むことになります。しかし、人は、心の中で欲望に動かされて生きるものです。欲望とは人の生きる力でもあります。自分を愛し、よりよくなりたいという自己愛であるのです。それはギリシャ語でエロスと云って、“愛”を意味します。人は、自分ひとりで生きることは出来ません。それぞれが自分の欲望だけで生きることはお互いがぶつかり合うことになるのです。そこに争いや混乱が起こり、不安と疑心が渦巻くことになります。そこで家族や友人、親しい地域社会のでは、お互いが互いのこと思って譲り合い、我慢することにいなります。損得抜きで犠牲をお互いに払って“愛”し合うことをフイロスと違った“愛”の表現をします。共に生きることは愛し合うことであるのです。人を生かす真実に“愛”をヨハネによる福音書8章の一人の女の人の出来事を通して教えているのです。
イエス様は、朝早く、神殿の境内行かれると群衆が集まって来たので教え始められた時、律法学者達やフアリサイ派(律法厳守派)の人々が、イエス様を試して、口実を得ようと姦淫の現場を押さえられてつれてこられた。彼らはイエ様に「この女は姦通で捕まえました。モーセの律法では“石で打ち殺せ”(レビ20:10、申22:24)とありますが、あなたはどう考えますか?」と云ったのです。彼らはしつこく問い詰めるのですが、イエスはしばらく地面に何かを書いておられたのです。しばらくして身を起して「あなたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と云われ、地面に字を書き続けられた。そうすると、年寄りから、一人、また一人去って行きました。連れてこられた女の人が一人残ったのです。イエス様は「だれも罪に定める者はいなかったのか。」と聞かれたのです。「主よ、誰も」と女の人はポツンと言いました。イエス様は「私もあなたを罪に定めない。これから罪を犯してはならない。」と云われたのでした。
この当時、確かに姦淫は重い罪でした。しかし、現実には、裁判には2人の証人がいることになっていましたから、亭主が、勘ぐるだけではどうにもならないのです。二人が一緒の部屋にいただけぐらいでは「姦淫」には成りえないのです。また、女だけでなく、男もいなければならないのです。一方、男(亭主)が、妻を忌み嫌い離婚が出来たのです。離婚をすれば財産を分けなければならないので、女に姦淫の罪を着せて、つつもたせの男を逃がすようなこともあったようです。律法が実際には自分の都合で逃れる者もいたようです。このようなことから一人の女の人が姦淫の罪に問われている想像しかできませんが、現実に律法学者やフアリサイ人は、精査したのか疑問が残ります。しかし、彼らは、この女の人の問題ではなくイエス様の律法への忠誠心を試すことにあり、イエス様を貶める道具として一人の女の人を差し出しているのです。この女の人に生死には関心がない、イエス様を試すことにあったのです。この事から真実の愛とは何を意味するのかを教え、人の生きるのは神の愛、その恵み、赦しなくして人は真実の平安と平和を見出し得ないことを示されているのです。
第一に、人間はいつも自己を正当化し、他の人を批判するのです。人の失敗と審きを求めるのです。しかし、神様は一人の人間のいのちと人生を回復し、神に造られた人間として自己を悟るように導かれるのです。イエス様は父なる神様の御心である“愛”を示すために「赦し」の真理を教えておられます。「赦す」ことこそはあらゆる問題の解決のカギであるのです。イエスキリストが十字架にかかり御自分を犠牲「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネT2:2)にして“神の愛”アガペーを示されたのです。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:13,14)
第二に、イエス様は「罪のない者は石を打て」と言われました。年長者から一人、一人去って行き、誰もいなかったのです。これは人間は全ての人が神様の前に何らかの罪を持っている、あやまちのある現実であると教えているのです。主は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:1−3)と云われえています。
第三に、女の人は、最後まで残ったのです。自分の罪を自覚し、現実の裁きの恥辱にさらされたのでした。そん刑罰に弁明出来ず、最後に残られた罪なき主イエスキリストの前に、その裁きを待ったのです。彼女は、心から自分の罪を悔いたのです。主は「私も、あなたを罪に定めない。再び、罪を犯してはならないよ。」云われたのです。裁くことのできる神、義なる、聖なる神、。しかし、赦しえない人、受け入れられない人をその悔い改めを認め、水から罪の贖いを差し出して救う恵み、それがイエス様の示された「神の愛」であるのです。神の愛は人を救い、回復し、再生する力であり、命であるのです。
:「 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(ヨハネT4:16−18)

 


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