2011年 7月24日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「福音の恵みと勝利」 
聖書箇所 マタイ福音書18章6−9節
人生の生き方には大きくわけると二つあります。一つは、神様を信じる生き方であり、一つは、神様を信じない生き方です。世の中には色々な宗教があります。宗教の中心は世の中や自然に存在する者を絶対者とする信仰なのです。“太陽”や“山”、ある時は“滝”などを御神体にします。また、仏教のように人間が生きる中で“悟り”によって行きついた信仰もあります。それは自然の被造物を神格化することであり、仏教は人間の経験の思索であるのです。それは、客観的には決して“神様を信じている”とは言えないのです。
神様は、自然のすべての創造者です。(創1:1)自然といのち、存在の根源者であるのが「真実の神様」であるのです。人の作った神ではなく、すべての創造の根源である方、この神様を信じることが真の信仰です。
 聖書の創世記には神は、天地の創造の後、地の自然を整え、人が生きる自然を備え、最後に、神に似せて人間をお創りになったと記しています。それは決して機械的な自然の仕組みだけでなく、「神様は愛である」(ヨハネT4:8,16)と云うことを示されているのです。そして人は神に似せられていることこそ「人は、愛で生きる」ことになるのです。現実に、人は、父と母の愛によって生まれ、その愛で育つことになります。人は、本来、一人で生きることは出来ないのです。共生して生きるのです。共生は「愛し合って生きる」ことです。神様を信じることは、「神様を愛する」ことを意味します。(ヨハネT4:7)神様を愛することは、神様の御心に生きることになります。「愛することのない者は神を知りません」(4:8)とあります。確かに、神様を信じなくても“愛しあっている”現実もあります。正に、それは人間が神に似せて造られていることの証であるのです。しかし、現実起こっている社会現象は、幼児や高齢者の虐待、欺瞞詐欺、金利に振り回される経済界、あくなき自己主張の破滅が戦争となって地球を不安に陥れているのです。
神様の意図された「愛の世界」は見失われ。即ち、人が真実の「神の愛」を見失っている、その原因は、神様を信じないことにあるのです。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14,15)
神様は「愛である」であるからこそ、創造された自然と人の営みに無関心でおられるはずがないのです。神の摂理、御計画のお気持ちは調和と愛です。人が見失った真実の愛、「神の愛」を神様は、イエス・キリストの十字架の出来事を通して世に示されたのです。それは罪の贖いの犠牲となられた出来事であったのです。「この方(キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネT、2:2)ここに示された神様の愛による赦しこそ、和解と調和の鍵であるのです。「愛することは赦すことである」(コロサイ3:13、14)と云うことは、どのような時にも「赦す、愛」が、「完成された和解」を生むことになるのです。イエス・キリストを信じることは、人間の根本的な罪のために犠牲となって贖って下さったことを受け入れることです。その恵み、神の愛を命として生きるときに、新しい人生が始まります。どのような混乱と対立の中にも神様の愛。“赦し”があるところに和解と平和の希望が約束されるのです。この恵みこそ「福音」であるのです。
マタイによる福音書18章6〜9節には「つまずき」に対する教えがあります。聖書の「つまずく」は“スカンダリゾー”と云うギリシャ語ですが、躓かす、躓く(受動)から「信仰を拒む、離れる」「罪を犯す」と云う意味にもなります。ここから三つのことを学ぶことができます。
第一に、先ず、神様を信じるクリスチャンが、キリスト信じ、神様の愛を生きるようになっているからには互いに愛しあうことを証しすることになります。愛のあることころに神様がおいでになることは聖書に記されています。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネT、4:12)しかし、現実には意見の対立や、思い違い、いらだち等が交わりを破壊するのです。正に、「躓かせる」ことこそ深刻な破壊を生むことになります。目は、欲望に走り、手や、足は行動の道具となるのです。
しかし、現実は、人間は弱いものであり、罪深い者です。だからこそ、キリストのみ前で日々、悔い改め、罪赦されて行かなければならないのです。そこで、神様を信じることは、神に生かされ、罪赦されて生きるということに何時も目覚めることになります。だからこそ「謙遜」と「感謝」が証しされることになります。そこには自分に「真実」になり、「正直」「誠実」があることになるのです。「躓かせる」失敗をキリストの十字架で回復して頂くことこそ大切なことであるのです。
第二に、キリストは「わたしに躓かない人は幸いである」(マタイ11:6,13:57)と云われている。「躓かせる」と云うのは「罪を犯す」ことになるのですが、「躓く」ことは「批判」であり、「信仰を拒む」ことになります。それは「傲慢」であることになります。神を否定するとき人は、自分を中心に生きることになり、自存、自力の生き方であって、「感謝」や「謙遜」とは疎遠であっり、自己満足、自己陶酔の傾向になり、挫折や敗北は絶望に陥りやすいことになります。そして人は神を信じて霊的に目覚めない時、ハイデッガーが云うように「死に至る存在」として空しさが残るのです。神の国は、神の共生されるところにあるのです。正に、「愛のあるところに神がおられる」(ヨハネT4:12)即ち、今、そして永遠に変わることのない神の国に生きることになります。死を克服し霊に目覚めて永遠のいのち、神様の愛、交わりを約束することになるのです。キリストは言われます「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)。
第三に、「躓く」ことは、「許せない」ことであるのです。受け入れられないのです。交わり、平安も過ち、即ち、偽善、不誠実、欺瞞、搾取から破壊が始まります。そして対立、混乱が続くことになります。ヒルティは「赦すことは忘れることである」と云いました。聖書には「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。」(ヘブル10:17)とあります。それはイエス・キリストが罪の赦しの贖罪の道を御自分の十字架で成し遂げて下さっているからにほかなりません。
内村鑑三は23歳の時、渡米し、神学校に行く前にしばらくフイラデルフイヤで知的障害者の児童施設で働くことになった。厳しい奉仕の中で人種差別の渦巻く社会環境でどのように優しく、真心こめて働いても「ジャップ」「ジャップ」と云って見下げられ、子供にまで見下げられる始末であった。そのような中で鑑三に一人の子供が、いつもにない悪さをしでかしたというのである。鑑三は叱ることもなく、自分のたらなさを思い、赦し、祈ったというのである。その子はそれ以来素直になり、他の子もそれを見て鑑三に信頼をおくようになり、もう「ジャップ」と云うような見下げたことは言わなくなったというのである。40年後、内村鑑三の弟子のひとり“大賀はす博士”で知られる大賀一郎がこの施設を訪れた。丁度、クリスマスで祝賀会の劇をしていると「カンゾウ」と云う劇に出くわした。今だに、カンゾーの話が施設に伝承されていたというのである。
 「赦す」ということが、子供に感動を与えた。そして、いつまでもキリストにあって「赦す」ことが、神様の愛に生きるということを伝えているのです。キリストの福音、神の愛の恵みが和解と平和の力となっているということです。
「躓き」を与えず。キリストの愛に生きなければなりません。「躓かず」、赦す忍耐をキリストの愛によって与えられようではありませんか。そして、みんなが一致するところに勝利と祝福の実が実るのです。

 


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