2011年 7月31日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「試練を克服する鍵」
聖書箇所 「試練を克服する鍵」創世記12章1−9節
 長い人生には厳しい試練や苦難の時があります。どのような試練や苦難も辛いものです。使徒パウロは「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(コリントU、1:4)と云っています。神様を信じることの究極的な経験は、試練や困難に出会っても、神様が、慰めるだけでなく、立ち上がるようにして下さる事です。彼は言います「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(:8)と。生きる望みを失い、死を覚悟する試練に直面して、自分ではどうにもならなくなった。そして云うのです「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(:10)「死の危険」はおそらくパウロの歩んできた道の「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」(コリントU6:4,5)と云う経験であったのです。そして「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:37)神様を信じることは、神様を愛することであって、神様は信じるものを信じ、愛される神であるばかりでなく、実は、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(ヨハネT4:19)神様を知らない、信じていない時、すでに、神はわたしたち一人一人を信じ、待ち、愛し続けて下さっているというのです。だからこそ「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)と聖書は言うのです。
試練や困難は自己成長のチャンスです。そして神様を信じる人にとっては、その試練によってさらに深いキリストにある知恵と力を経験することが出来、自己の飛躍を約束します。「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」(コロサイ2:2,3)
 アブラハムは信仰の父として敬われる伝承があります。そのように云うと完成された立派な無欠の人格者のように思いますが、アブラハムは迷い、ある時は離れ、挫折する中でなお神様の愛と信頼に赦されて回復し、長い月日の内に、ただ愛の神様を信じ、従う中で祝福の約束を体験する生涯でした。アブラハムの家族はカルデヤのウルに住んでいました。紀元前4千年前のことですが、古代社会の文明の発祥したチグリス・ユーフラテス川の河口の三角州地帯にあり、経済、宗教、文化の発展しているところでした。しかし、そのころユーフラテス川の氾濫で急激な地形変動が起こり、おそらくは水利が断たれて街や農耕が機能を失ったといわれています。住民は生活に困っていた。人々は、災害による激変のために途方に暮れていたのでした。この地方は月礼拝の因習が支配していたのです。その中でアブラハムに創造主なる神は「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創12:1−3)と旅立つように導かれるという不思議な導きを受けるのです。おそらく父テラが部族の実権を持っていることから、父を説得して川の上流に向かって、ハランに着いた時、肥沃な土地に魅せられて定着しました。テラはここに落ち着こうとしたのですが、ウルと同じような月礼拝をし、その因習に縛られるこの土地におそらくアブラハムは自分に示されている神様の道は違うと確信していました。アブラハムは今こそ神様の道に進もうと決心しました。造り主なる真実の神に従いカナンに入った時に主は「この土地こそあなたに与える」と示され確信してそこに祭壇を築くのでした。
この出来事の中で、先ず、試練の中でアブラハムに約束された神の三つの祝福こそすべてのクリスチャンに約束されているのです。1、大いなる国民とする。2、祝福の源になる。3、あなたと共に神様を喜ぶ時、その祝福は全ての人の祝福となる。と云うものであったのです。ここから様々な試練と困難に出会う人生を勝利する道を示しておられるのです。
その第一は、災害と混乱の中で生活が壊滅した中でアブラハムに神は「わたしの示す道」を示し、祝福の突破口を与えておられるのです。過去の因習や様々な思いが錯綜する中で神の言葉を「信じる」、このステップが、祝福の鍵となるのです。最初の一歩がなければ、すべてはないのです。
その二に、アブラハムは父を説得し、家族の同意を得なければ出来ない立場であり、不可能ですとも言えたのです。しかし、おそらく父を説得し神の「祝福の約束」を語り、出発したのです。ハランに来た時、父や家族は定住しようとしました。しかし、アブラハムは忍耐をもって時を待ったのです。意見が対立し、思うようにならない時、挫折するかあきらめるものです。しかし、アブラハムは主の導きを待ち望んだのです。試練と困難の克服には、忍耐が求められ、その忍耐こそ「主を信じる信仰」によって約束されているのです。
「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:2−5)
その三に、クリスチャンには三つの基本的な約束をされているということです。「大いなる国民」とは神の国に実現を約束されていことであり、その実現の基として用いることであって、その祝福は受け入れる人々に限りない祝福となって実を結ぶという約束です。
 直木賞作家の志茂田景樹さんは奇妙で派手なタイツでテレビでもよく知られている。この人は職業を転々として40回は変えて経済的にも厳しいところを通り、奥さんの内助の功もあって努力して直木賞を受賞したことで知られている。しかし、受賞後は経済的にも豊かになり、豊かになると生活は一変して文壇バーや高級クラブに出入りして、お定まりの愛人と共にいて放蕩の道を行き家に寄りつかなくなってしまったと言うのです。陰で苦労をしてきた奥さんにとっては絶望的な苦しみを担うことになったのです。成功と共に簡単に妻を捨てる神経を到底許すことは出来ない。怒り、怨み、嫉妬の煩悶の中でこの悲しみに打ちひしがれるしかなかったという。そのような時近所に宣教師が引っ越しして来て、英語やお茶に誘われて出席するようになり、宣教師から三浦綾子さんの「塩狩峠」の本をもらった。長野政雄の人を助ける「無償の愛」を知って、三浦さんに手紙を書いて夫の光世さんから手紙をもらった。そして、教会に行くようになり「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28)この言葉で心を捕えられ洗礼を受ける。そして憎しみと嫉妬の渦、孤独の中から解放され、キリストを愛することによる平安が与えられ夫を待てるようになり7年にして家庭は回復し、夫も変わり、子供たちへの読み聞かせを始め、老人ホームや、小学校、公民館で働きを進めている。神様は計り知れない知恵を持って出会う人々を祝福に回復して下さる方であるのです。ハレルヤ!!(“この深い河を越えて”より)
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)

 


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