2011年 8月7日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「揺るぎない人生の土台」
聖書箇所 マタイによる福音書7章24−29節
関西ではわたしの少年時代には子供たちの会話で「アホ」と云う言葉を何気無くよくつかいます。相手の意見と違うことを云うような時、日常的にしばしば使います。「アホ、お前、何云うてんねん」「そんなアホな」などと云います。「アホ」は関西独特の表現で漫才は「ボケ」と「突っ込み」で、言葉や仕草の落差の掛け合いの中で生まれる「おかしみ」が人々に笑いを共感させる話芸であると言えます。「アホ」は「愚か」であって知能や理解力に乏しく、程度が劣り、ばかばかしいことであるのです。
 マタイによる福音書の「山上の説教」の教えを「語り終えられると」(7:28)と記しているのは、イエス様の教えをくまなく、完全に語りおえたことを意味しています。その教えのすべての言葉の総括として24節から27節の中で「愚かな人」と「賢い人」について教えています。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24)“賢い人に似ている”とありますが、口語訳聖書には“賢い人に比べることができよう”と訳されています。この“ホモイオオー”(似る)と云う言葉は“〜のようになる”の意味であってここでは未来形の動詞であるのです。「賢い人に比べることが出来よう」と云う意味になるのです。今は、「愚か」であるのか「賢い」のか分らない。はっきりしない。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(:25)この言葉は、これから、将来、何が起こるか分らない。自然災害、社会の激変など、身近では病気や急激な生活変化、それだけではなく最も根本的なことはこの世を去る死と云う激変を迎えるときにこそ天国への平安と喜びを確かなものに出来る「賢さ」の道を示しているのです。
 第一に、この言葉は、終末の裁きの日を想定しているのです。死で終わる空しい生涯ではなく、神のみ前に永遠に交わる神の国の平安を教えているのです。イエス様の教えは単なる、生活の倫理や人の道だけでなく、神の国の命、永遠の命の道であるのです。倫理や道徳は死までの生き方であるのです。イエスは言われています「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)ここで言う聖書は旧約聖書トーラを学び、トーラ(律法)を守ることが「永遠の命」と思っている。聖書は、キリストについて証しているのです(「 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」“ヘブライ人への手紙1:1、2”)。イエス様の御言葉を聞くだけでなく、信じて、み言葉に生きる、イエス様と共に生きるところに神の国の平安と勝利が約束されているのです。今の生活では「賢さ」か、「愚かさ」は判然としないのです。人生の究極的な迷いと不安、死に直面するときに「賢さ」と「愚かさ」が判然とすることになります。「イエスの御言葉に生きる」ことによって人生の最終的な困惑であり、虚無と悲劇的な孤独、言いかえれば滅びを克服できることを約束しています。その厳粛な事実を克服することは、現実の人生のどのような試練をも克服できる事を約束しているのです。その時にこそ、「イエス様の言葉に生きる」ことの「賢さ」と「愚かさ」がハッキリと判明することになるのです。使徒パウロは力強く「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。…だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:31―37)と云うのです。
第二に、「イエスの言葉を聞いて行う」ことこそ、信仰生活の極意であることを言っています。「イエスの言葉を聞いて行う」と云うことは「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2:6,7)で言い表しているように「キリストに根を下ろす」こと、即ち、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」(3:16)と云うことであるのです。「キリストの言葉が豊かに宿る」ことこそは約束の実現の基本的前提であるのです。ヨハネによる福音書では「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(15:7,8)「キリストにつながる」ことは「キリストに結ばれている」、キリストの命を受け、その実が生活の中で実ると約束しているのです。そして「神の栄光」神の恵みと祝福がハッキリと体験されることを言っています。その生活こそは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)の言葉に云い現わされています。「キリストを聞いて行う」ことは「豊かに実を結ぶ」ことによってキリストの弟子の証をすることになります。
 第三に、植物は根を張ると共に、太陽の光によって命が育つのです。キリストの御言葉に根差すと共に、太陽の光、即ち、見えないが明るく、熱く、命を芽生えさせるのです。それこそはイエスが約束されている「聖霊」であるのです。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と云われています。キリストの言葉は真理であるのです。そして「この方“キリスト”は、真理の霊である。」(ガラテヤ14:17)です。この「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)て下さる方なのです。だからこそ「聖霊に従って生きているなら、聖霊に従って前進する」(ガラテヤ5:25)ことによって「聖霊の実」、即ち、「聖霊の結ぶ実は愛」(5:22)として信じる人の生活に証しされることになる。その実こそ「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(5:22)に尽きるのです。キリストの言葉は信じる人の心にしっかり根付く時に、み言葉と共にあるキリストの命、聖霊が働かれ、その聖霊の豊かな導きによって永遠の命の平安と、現実の生活と人生に大きな恵みとして実を結ぶのです。その聖霊の導きこそ祈りの生活にあるのです。み言葉と祈りが生きた信仰の力と命となってキリストが共に何時もいて下さる祝福を経験できるのです。 一つしかない人生、「愚かな歩み」でなく、「賢い人の歩み」をキリストを見上げて進もうではありませんか。

 


 


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