2011年 8月14日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「平和を実現する幸い」
聖書箇所 ロマの信徒への手紙12章9−21節
 8月15日は太平洋戦争の終わった終戦記念日であり、私たちの教会では「信教の自由を守る日」としてこの戦争の意味を問い、平和を考える日としています。日本の国が太平洋戦争を境にどのような変化を起こしたのかという検証の時でもあるのです。二十世紀は血の世紀と云われるぐらい悲惨な世紀であったのです。近世以降の世界の流れは、帝国主義による植民地拡大と領地収奪の闘争であり、それはやがて資本主義と共産主義の対立となりました。二十世紀になると世界の国家間は民主主義と共産主義、そして軍国主義の覇権闘争であったのです。日本は徳川幕府のもとに270年間は泰平を維持した世界でもまれな国であったのです。幕末から開国に踏み切り西洋諸国の植民地闘争に巻き込まれ、朝鮮、中国を始め南西アジア諸国に表面上は西洋列国の植民地拡大に対抗する仕方で侵略することになります。パールハーバーの奇襲に始まり、原爆投下で終わりました。戦勝国による極東軍事裁判は、敗戦国政治責任者を罪悪者として断罪しました。この裁判は本当の戦争の普遍的な正義の裁定は不可能であるという疑問を残しています。どのような戦争も「正しい戦争」はないのです。
わたしの大学の時のゼミの先生は広島の原爆被爆者として関西原爆被爆者協議会会長を長年されてきました。授業で「戦争はどのような理由があってもしてはならない」と言われた言葉が今も心の深く残っています。太平洋戦争は悲劇でありました。日本は封建的な絶対的な人命軽視の伝承から、この敗戦で人権尊重と共生を基本とする平和を与えられたのです。人間本来の自由を保障する国家となったのです。戦争の愚かさによらなければ自由と平和に目覚めえなかった悲劇であるのです。この戦争の悲劇により平和を話し合う場(国連)が出来たことは失敗への反省と言えます。
聖書は「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)と記しています。これは神を信じる人は、平和を実現する努力をし、忍耐し、犠牲を払う人たちであると言っているのです。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ロマ15:13)「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように。」(ロマ15:33)この聖句が示しているように現実に戦争の闘争と絶望が続く中で「平和の源」として、神は「希望の源」であると教えているのです。言換えれば、どのような時にも「平和の源」を神は備えていて下さるからこそ「希望の源」が失われることはないと約束している事になります。その「源」こそは「神は愛である」(Tヨハネ4:8,16)という事実に基づいているのです。神様を信じることは、神様の愛に生きることにほかならないのです。人間は本来的に生きたいという欲望であって、その営みは願望によって支えられ、維持されます。これが自己愛であるのです。願望を持つことは自然な姿であるのです。しかし、人は共に生きるからこそ人であるのですから、他の人のことを無視して自己の願望だけを考えるときに当然争いが起こることになります。聖書が教えるように「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Tコリント13:4−7)この愛こそ「平和実現」のカギであるのです。イエス様が犠牲になられた十字架の出来事によって、この与える愛、「神の愛」が、自己愛の混迷によって生じる対立と亀裂、即ち、罪の悲劇を解決し、キリストによって救いが示されているのです。「神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:8−10)ここに示されている第一のことは、神を見失い、神から離れ、真実に神の愛を見失った人間の罪深い現実を指摘しています。第二に、人は、神様を信じ、神様の言葉を真実に生きるときに「平和を実現」出来るとしています。第三に、だからこの実現の約束が希望の喜びになるのです。神様を信じることが全ての鍵となり、信じ続けるところに希望の喜びが生まれるのです。この希望があるからこそ「愛は、忍耐する力、忍ぶ支え」を持って耐え忍び、平和の実現に行き着くのです。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Tコリント13:13)のです。
戦争は、一人一人の心に中に始まるのです。家庭の中でも家族間の不信や、好みの対立、所有欲の憎しみなどが家庭を不幸にするものです。神を忘れた罪が支配する悲劇です。それは職場でも、学び家でも、友情を交わす仲間の間でも起こりうるし、起こるでしょう。国と国とが利害と主張が対立するとき戦争は起こるのです。だからこそ、キリストの言葉に従って実を結ばねばなりません。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。…あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ロマ12:9−18)
一人一人が、平和と希望の源であるキリストを受け入れ、信じるところで平和が語られ、考え、平和を造り出す命が育つことになるのです。平和に生きることはキリストの祝福であり、喜びであるのです。クリスチャンは平和を喜び、平和を語り、平和を造りだす人です。

 
【今週のみことば】
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2:4)


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