2011年 8月21日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「明日を開く恵みの言葉」 
聖書箇所 ルカによる福音書5章1−11節
 言葉には不思議な力があります。言葉は情報でもあるのです。現代は情報化時代と云われています。テレビやインターネットの情報の言葉が人々を動かし、社会を動かしていると言えます。人々を混乱させたり、人を不幸にする言葉もあり、破壊的な言葉もあります。人に感動を与え、慰めを与えたりもします。書物になった言葉は遠い昔の言葉であっても生きている人の心をとらえ、力になります。3千年の昔の種を開花させた“大賀はす”のように言葉はどんなに古くても人の心に蒔かれる時にその言葉の持っているメッセージを開く命を持っています。
 ルカによる福音書5章にはイエス様がゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖の別名)に来られた時人々が神様の言葉を聞こうと思って集まってきました。そこでは漁師たちが漁を終えて網を洗っていました。イエス様は二艘ある船のシモンの船に乗って少し漕ぎだして岸辺の人々に話をされた。終わるとシモンに「沖に漕ぎ出して網を下ろして漁をしなさい。」と云われた。シモンは「夜通し、苦労したんですが何も取れませんでした。でもお言葉ですから、網を下ろしてみましょう。」と云って、漁をするとおびただしい魚が取れて網が破れそうになった。そしてもう一艘の船を呼んで二艘一杯の魚で船が沈みそうになったというのです。これを見てシモンは驚愕してどういうわけか「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深いものです。」と云うのです。そうするとイエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と云われ、シモン・ペテロと共にいたヤコブもヨハネもすべてを捨ててイエス様に従っていったのです。
 シモンペテロが漁も終えて網を洗い広げて干そうとしているところに、人々がイエス様の言葉を聞こうとして集まって来たのです。シモンたちも仕事も終えたのでイエス様の言葉を聞こうとしたのです。しかし、あまりにも人が多いのでなだらかになった岸辺に人々を座らせて、イエス様はシモンの船に乗って少し沖へ出て岸に向かって話をされたようです。主イエスが神様の偉大な創造の恵みとその愛、神様を信頼する人にはどのような時にも解決の答えを備えて下さり、道を開いて下さる。律法を守っていると言いながらも内心では人を憎み、軽蔑し、批判していては偽善者である。律法を読めない人も、知らない人でも自分の罪を悔い改めて心から告白するなら父なる神様は赦して下さり、真実に愛し合うことによって神様が共にいて下さることなどを話されると、無学で律法も知らない、読めないだから律法を守れない罪人と蔑(さげす)まれていた彼らは感動し、その教えに驚愕(きょうがく)したのでした。その時、イエス様はシモンたちに「もう一度、沖へ出て、網を下ろして漁しなさい。」と云われるのでした。
この事から先ず第一に学ぶべきことは、イエス様がシモンに「沖に漕ぎだして網を下ろして見なさい。」と云われたことに対して「夜通し苦労して漁をしましたが何もとれませんでした。お言葉ですから、網を下ろして見ましょう。」と云ったことである。徹夜で漁をして疲れきっている。網を洗ってしまっている。いまさら濡れた網を出すのは大変なことです。シモンは漁師であり漁場も心得ていた。漁は暗闇で火をともしてする仕掛けがいる。今はもう夜が明けていて明るい。それでは絶対獲れるわけがない。経験も知識もあるベテランであればある程、ばかばかしいと決め込むのが当然であったのです。断りも出来たのです。何故シモンは「お言葉ですから」と云ったのであろうか。矛盾を感じながら、なお「お言葉ですから」と云ったこの言葉は、聖書の原意によれば「あなたの言葉だから」「あなたの言葉に基ずいて」「あなたの言葉に任せる」「あなたの言葉にゆだねる」「あなたのお言葉に賭けて」と云うような前置詞(与格の転義的意味で)が用いられているのです。
確かに、聖書は祈れば答えられると約束はします。しかし、いつの間にか自分の中の潜在意識によって自己集中する自力の実現を祈りにすり替えて、祈りは、自分が神様を動かす手段のように錯覚に陥ることがあるのです。「神様の確かさを信じる信仰」即ち、神様の御言葉に委ね、御言葉に根差して、神様に従う時、その御言葉が現実となって「恵みの言葉」として神様の臨在を経験させるのです。そこに「イエス様の恵みの言葉」の感動と驚嘆、祈りはひたすら「主の御言葉」に従う信仰の告白であることを経験的に理解することによって揺るぎない信仰の確信と成り、証しの生活が祝福として実を結ぶことになります。
第二に、シモンは、主の御言葉に従って、再度、漁をすると想像を絶する驚くべき大漁になり、「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深いものです。」と云うのです。これはちょっと不思議なことです。自分ではどうにもならない時に、主の御言葉に従って経験したことのないような大漁になるのです。であれば、感謝してイエス様あなたの祝福の秘伝を教えて下さい。このような方についていれば間違いなない。この金儲けを取り逃がすてはない、人生のチャンスであると考えるのが普通です。しかし、シモンは「主よ、わたしから離れて下さい。」と云っているのです。聞いた主イエス様のお話、神を信じる者に答える神の恵みを現実に体験し、驚愕する祝福の大漁を目の当たりに見てイエス様の真実と、自分の内面的な姑息な心を打たれ、自分の罪深さを知り、到底、イエス様の神にある誠実と真実の前にいたたまれなくなったと言えます。浅はかで、狭く、軽率、神様の目に不誠実で罪深い自分を見たのでした。神様の驚くべき恵みの前に、自分の罪深さを自覚したのでした。神様を信頼し、近づけば近づくほど自分の罪深さが明らかになるのです。霊的深みとは神様に近づくことであり、罪の深さに驚くことであるのです。偉大な恵みの前に悲しみに打ちひしがれるのです。その時、主は、「恐れるな」と云われるのです。
第三に、主は言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と云われているのです。不安や、試練を恐れるびくつく恐れでなく「神を恐れないでいることが出来る」と云うことなのです。罪赦されると共に、どのような時にも、一生、あなたを離すことはない。「世の終わりまで共にいる」(マタイ28:20)と約束される主であるのです。人生を切り開き、生かすのはあなた自身でなく、主であるキリストであるのです。その活ける神を語り、伝える人として「人間をとる漁師」「人間を救い、解放する漁師」にしようと約束して下さるのです。そしてなお幾度となく襲う試練の中で「恐れるな」を語り、守り支えて下さる主であるのです。キリストの言葉に従い、いつも赦された罪びとの自覚を確信し、恵みの言葉に生かされキリストの福音を伝える祝福の道を歩もうではないか。

 
【今週のみことば】
Uコリント13:8(口語訳)
「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」
 


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