2011年 9月4日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「人間性の真髄を開くーキリストの魅力」
聖書箇所 ヨハネによる福音書1章1−5節
 今年の夏は北海道を一週間ばかり南は函館から北は北見まで旅する機会があった。行くところ行くところ開拓の碑が、その生活を開く歴史を物語っていた。美しい冨良野の花畑はこの世のものとは思えない風情であり、農村の家々は如何にも裕福で洒落た、大きな家であった。道端の碑には明治の初期の開拓団の歴史が刻まれていた。ここは三重県人の開拓団で開かれていた。十勝連山の噴火で、その泥流に多くの家や人が、そして苦難の開拓でなし得た田畑が壊滅したという記録である。その時、私たちの教会で持っている三浦綾子読書会で紹介された北海道の「泥流地帯」の作品が思い出された。北見市は都市整備がされた大きな都市である。道東の中心地であり活気のある街でもある。この町の歴史文化財であり、道の重要文化財としても記念されているジョージ・ペック。ピアソン博物館がある。彼は北見の町の創成期にアメリカから来た宣教師である。明治・大正の時期に大きな働きをしたのである。わたしは三浦綾子さんの御主人の三浦光世さんのことを作品の中で知って「光世―みつよ」と言うのが、どうしても女の名前に思われた。 それは聖書の「あなた方は世の光である」(マタイ5:14)から付けられたものであることが分る。光世さんのお父さんがクリスチャンであり、そのおじいさんもクリスチャンであったのである。その生家は北見市の「滝の上」と言う山間の開拓集落であったのである。明治時代にどうしてこのような辺鄙なところでキリストの福音を聞いたのであろうか。そのことを知りたいというのがこの旅の目的でもあった。わたしたちは北見に行く日に「塩狩峠」の三浦記念館に寄た。やがて北見神愛キリスト教会に着いて特別礼拝の御用も終わり交わりの時があった。12人の礼拝で開拓形成期の教会ではあるが、キリストにある喜びに溢れた会衆であった。80歳ぐらいの年長の兄弟は池田さんと云ってピアソン博物館を経営するNPOピアソンの会長であった。わたしたちは閉館間際の夕方、綺麗に保管されているピアソン記念館に案内された。そこで初めて北見の開拓の歴史を知ったのである。
教会のある町は「屯田西町」で目の前の川を挟んで向こうが「北光町」である。「北光」は北見が野付牛という地名のころ明治30年初めて「北光社」という土佐の開拓団が入植したのが始まりである。この指導者が坂本直寛であった。坂本直寛は坂本竜馬の甥に当たる人で慶応3年竜馬が暗殺されたときに14歳であった。彼は46歳のときに40人の土佐のクリスチャンと一緒に「北に光」を求めて来た。坂本直寛は竜馬の姉千鶴の子であって兄、坂本家の養子となる。土佐では早くから板垣退助が自由民権の運動をおこし立志社を設立していた。直寛は若手運動家として活躍した。やがて日本に最初の来日した改革派の宣教師フルベッキとの交流の中でキリストの福音に出会い、明治18年に洗礼を受けてクリスチャンになる。そこにはその後、衆議院議長になった片岡健吉もいた。35歳で県会議員となり、自由民権の働きを進めたが、やがて政府の弾圧が始まり、彼は東京に出て“建白書”を政府に出そうとして手入れを受け、保安条例に従わなかったために逮捕され裁判に架けられ2年6カ月の判決を受ける。そして石川島監獄に収監される。そこで劣悪な囚人の悲惨な処遇を経験したが、神様から来るキリストの平安があった。やがて政界を引退し、46歳にして北海道の北見開拓に入り、“北”の国に希望の“光”を求めて「北光社農場」を、やがて入植が一段落つくと旭川の伝道に出て牧師として献身する。旭川教会を設立し多くの人々をキリストに導き、特に刑務所の教誨師として囚人の厚生のために尽くし、明治40年に十勝刑務所で千人の囚人を前に切々とキリストの愛と赦しを語り、囚人たちの多くが胸を打たれ慟哭し、罪を悔いてクリスチャンになり、監守の人たちも多くがキリストに帰依した。直寛が旭川の教会で働いた時には、三浦綾子の作品「塩狩峠」のモデルとなった長野政雄とは祈りの友であった。
明治の文明開化はヨーロッパの文化を学び、取り入れ、未開な国に文明を開花させようとした。政治、経済、科学を取り入れて日本は近代化した。しかし、文化の花に魅せられ、実をとったのであるが、それが育った文化の根を受け入れられなかった。文化の発展は決して欧米でも一日で出来たものではなかった。強者による弱者の支配は人類の歴史の罪の相克でもある。その中で人間を真実に生かす「光」、幸福のあり方、目標と意味をその文化の中で息づかせてきたのが「いのちの言葉」「救いの言葉」、即ち、キリストの言葉であった。その道は決して平坦なものではなかった。「いのちの光」に照らされながらも醜い人間の欲望と権力の交錯する中で「人が輝く、幸福の光」としてキリストの言葉は歴史の闇を照らし、文化が築かれてきたと言える。人の命を軽薄にし、権力の奴隷化する封建的な仕組みを変えることこそは近代化の最重要課題であった。土佐藩の武士たちは人間の自由と権利を基本にした社会と政府を目指した。板垣退助は自由民権運動をおこし、立志社を設立する。片岡健吉や坂本直寛らは政府に提議するも弾圧されて投獄される。やがて彼らは西洋文化の中心にあるもの、即ち、キリストの福音の「光」、真実に人を生かす「命」の言葉、「キリストの言葉」を伝える人として立つのである。片岡健吉もクリスチャンとして政界で活躍し、衆議院議長となる。坂本直寛は北見の「北光社」の農場をおこして、やがて牧師となって罪に儚み、苦悩する囚人の友として、希望を失った人々に「希望の光」キリストの愛と救いを伝えた。その人生は、苦悩と挫折を繰り返しながら、どのような時も、キリストにある「命の光」に生きた。三浦光世さんの祖父が明治時代の隔絶された辺鄙な北見の開拓村でクリスチャンになられた経緯にたどりついた。

 
【今週のみことば】
ヨハネ1:4,5
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
 


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