2011年 月日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「人生のリフォームの喜び」
聖書箇所  ルカによる福音書』5章27−32節
「ビフォーアフター」というテレビ番組がある。住み慣れてはいるが、住み辛く不便で古くなった家を高度な技術と斬新で、時には伝統的な和風のアイデアを駆使して改装し、施行依頼の家族が喜ぶというドキュメントである。家、ホームは人生の支えであり、日々の再生の場でもある。人生は、人によって色々な道がある。「運命」と言う言葉は、人間の意志にかかわりなく、人間の力を越えた天の作用によって支配されると考えられてきた。そこでは“成るようにしかならない”“諦めが肝心”ということになる。同じような言葉であるが意味と内容はまったく違うキリスト教で云う「摂理」と言う言葉がある。この言葉は「オイコノメオ」(ギリシャ語)で「家を建てる」という言葉から派生した言葉として知られている。
「摂理」と言う言葉は、「神様の御心の計画」と言う意味であって、その意味の説明をハイデルベルグ信仰問答書の中で「われわれは、あらゆる不遇の中にも、忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらのより頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物も、われわれを、神の愛から、離れさせることは出来ないようになるのであります。」としています。愛なる神は、試練や困難に会う時、メッセージ(意味)を与え、忍耐する力と希望を与えられるというのである。神を信じる信仰には希望がある。それは「神は愛」であることが信じる者にとっては現実的な命と力となって希望に生きるからであり、愛されている事は、神様が助け導かれるという事だからです。人生は、神であるキリストと言う“匠”に出会って、真実の神に喜ばれる人生という家を築くことが出来るのです。ルカによる福音書5章27―32節にはイエス様が収税所にレビという徴税人が座っているのを見て「わたしに従ってきなさい」と言われたとあります。レビは何もかも捨てて従って、早速、イエス様を自分の家に招いて盛大な宴会を開いた。そこには徴税人や大勢の人たちがいた。ファリサイ派や律法学者の人たちはつぶやいて、直接、イエス様に云わないで弟子たちに「何故、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか?」と云った。イエスは言われた「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と。この聖書の教えるところは、第一に、人は、様々な生活の建築模様を描いて人生を営んでいるが、表面的な見方、偏向したステレオタイプや間違った先入観で自分では自覚しないで人間性を失っている愚かさを教えていのです。リフォームが必要な家では改装したい、改善したいと思いつつ決断し、完成した喜びがあります。外からは綺麗で土台の柱がシロアリに食われ危険な状態にあることも知らずに、人の家を見せかけで見下げたり、優越感を持つ愚かさであるのです。主に喜ばれる(エフエソ5:10)「家を建てる」(オイコノメア)ことこそ必要であるのです。確かにファリサイ派の人たちは律法に厳格であり、清貧に甘んじ、外国の支配者の抑圧に抵抗していいる人たちでした。律法者、確かに律法に通じていて厳格に宗教的な行事を守っていたのです。しかし、漁師や農民、庶民は字も十分読めない、だから、律法は読めないし、知らないし、守れない。そこで罪深く、赦されない、罪人であると軽蔑していました。徴税人は支配者ローマ政府の手先であり犬である。売国奴、強欲な汚れた人間として賎しめられていたのです。人間は、虚栄で人を差別し、貧富や性別で賎しめ、能力で見下し、人種や皮膚の色で偏見と差別をするのです。律法を守っていると自認しながら、内心では人を見下げ、差別し、憐れみの心さえ持たない人間性こそ神のみ前で罪人であると指摘されているのです。
第二に、レビはおそらく、レビ族の家系で司祭を務める高尚な家柄であったと思われ、何故、人が嫌う、支配者の手先になって人々の生業を圧迫したのか。徴税人は支配者の笠の下でうまい汁を吸うものとして経済的には豊かであるが、軽蔑されていた。豪勢な家に住み、贅沢な暮しをしながら心の孤独と罪悪感にさいなまされていたと言えます。イエス様は、彼を“見て”「わたしに従え」と云われた。彼は、何もかも捨てて従うのです。言換えれば、イエス様の弟子として一切のものを捨てて従う、献身したのです。この記事は簡潔に記しています。しかし、彼は、イエス様の「神の愛に生きる」赦しと恵みのメッセージを聞いていたのです。自分の充足のために、人の痛み、悲しみ、呻きさえも無視する道にいる自分の空しさ、神を信じていながら、神から遠い生活に中で、“神様の目”を見たのです。イエス様の眼差しがどのような人にもある心の目、真実を求める琴線にふれられたのです。彼は、人の心に与えられている神様の愛の心に目覚めたのです。
彼は、この人に全て委ねて従う決心をしたのです。人を批判し、差別してもそこには憎しみと分裂、離別と乖離しか残らないのです。レビ、“マタイ”はイエス様に従ったのです。
第三に、イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人でなく病人である」と言って、「わたしは正しい人を招くためでなく、罪人を招くために来た」そして彼らを「悔い改めさせるためである」と云われます。律法学者やファリサイ人たちにとって、律法によれば罪人と呼ばれる人と共に食事をすることは問題であったのです。外国人は律法を知らないし、関係がないことから彼等は罪人であり、滅びに定められている事になるのです。そこに優越と卑下、差別の感情があることになります。実際は、自分たちが正当だとしながらも、現実は極めて深刻な人間性を失っていることになるのです。律法は神の御心でありながら律法の真実の意味を見失っているのです。律法は人の罪を教えることにあり、完全に守りえない自分に気付き、ことのよって「悔い改める」ことによって神様に出会い、赦されて立ちかえることが出来るのです。キリストの愛と赦しが、十字架の出来ごとによって神様の贖罪の恵みを通して新しく生まれ変わり、神のお言葉、神の愛に生きる希望が与えられるのです。レビは、イエス様の眼差しの中に「悔い改め」と「恵みの赦し」、「神様との回復」即ち、救いを確信したのでした。
「悔い改め」こそ「救いの条件」であり、「救いの前提」であるのです。「神様との交わりの回復」、神様の愛に生きる人に、真実の道筋があり、永遠の命を今に体験する神様の設計図があるのです。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内に留まって下さる」(Tヨハネ4:12)。神の臨在こそ、神の国であるのです。ルターは「クリスチャンの人生は悔い改めの生涯である」と言います。毎日、日々の歩みの罪深い現実を見極めながら、「悔い改め」て心のリフォームをして成長し、充実した日々送りたいものです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(Uコリント4:16)

 


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