2011年 9月18日 礼拝メッセージ 
召天者合同追悼記念礼拝
「故郷への旅路」ヨハネによる福音書14章1−6節
今までに色々な人が、人間の一生は旅であると言い現わしています。芭蕉の奥の細道は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。」この言葉に始まります。旅には終わりがあります。行き着くところのない旅は空しく儚いものです。芭蕉の辞世の句と知られている「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。」と言う句に集約されています。人生という旅も病の中で果しえなかった夢が希望のない枯野を求めて駆け巡る儚さを表しています。この句には空しさとやるせない苛立ち、惑い、不安の孤独が感じられるのです。
 しかし、イエス様は「心を騒がせるな」と言っておられます。そして「神を信じ、わたしを信じなさい。」と言われるのです。実は、ヨハネの福音書13章の最後で弟子のペトロがイエス様に「どこに行かれるのですか」と尋ねるのですが、イエス様は「わたしの行くところへは、ついて来ることは出来ないが、後でついてくることになる。」と言われます。彼は「どうしてついていけないのですか、あなたのためなら命を捨てる覚悟は出来ています。」と言うのです。しかし、「あなたは三度、わたしを知らないと裏切ることになる。」と言う問答があります。人生の師であり、救い主とさえ告白しているのに「わたしの将来はどうなるのか」「イエス様を信じて、天国の安らぎを与えられていると言うのに?」と疑問と不安が渦巻き、おろおろするのでした。そこでイエス様は「心を騒がせるな」「おろおろするな」と言われるのです。確かに、ペトロはイエス様を裏切り、拒絶し、三回までもイエス様を拒むことになるのです。それを見越して、もう一度「神を信じ、わたしを信じなさい。」と言われるのです。人生は死で終わるのでなく、真実な幸せと平安を約束する「真理」、人を生かす「命」の「道」である。その道こそ、わたし「イエス」であると言われるのです。旅には、行き先と道筋があることになります。イエス様は、人が歩むべき道筋、「道」であるのです。それは行き先を示す「真理」、まがうことのない「命」を与える道理、道であるのです。「命」、それは人を人として生かし、支える命であるのです。
限りあるこの世の命の終わり,「死」は無に帰する空しさ、儚さ、絶望、虚無があるのみです。あの世を想定しても「夢のまた夢」。太閤秀吉は天下を取り、贅沢を極め、権力をほしいままに君臨しても、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはのことも 夢のまた夢」で人生は終わったのです。イエス様の「道」は、「命」、真実の道理、真理、この一つしかない道であるのです。天国への道です。永遠に変わらない、不変の命、永遠の命の平安と喜び、永遠に変わらない、失われることのない至福であるのです。
 イエス様は「わたしの家には住むところがたくさんある。」と言われる。それは正に神の国における住むべきところであると言えます。この「住むところ」と言う言葉は「マンション」であって、ラテン語のマンショーネから出来た言葉であることが知られています。その意味は旅の宿場や停留所などの意味があり、古来、教会では人生の旅には宿場、宿場で休んでは再生されて目的に辿るように、宿場、宿場で清められて神の国にたどりつくと解説されたりもしました。これは功徳を積むことによって神の国にいたるとした教えであり伝承であったのです。イエス様は「あなたのために場所を用意しに行く」と約束されます。決して遠い先のことではなく、今、神様のもとに帰る「道」を「わたしは用意しに行く」と言われるのです。その「道」とは、十字架への道であるのです。イエス様は功徳を積み重ねで神様に出会うことは出来ない、人は、限りなく罪深いものである。その現実に目覚め、罪深い泥沼に苦しみ、「主の御名」を呼び求める時、無限の愛を持って「救い」の大小を背負って罪を赦し、受け入れて下さる。この神様の愛を理解しないでイエス様の言葉を拒絶する。即ち、イエス・キリストを批判し、裁き、十字架につけることになったのです。このキリストの受難の道、十字架の道こそは神様の救いの代償であったのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:10)
ペトロは、確かに、イエス様を受け入れ弟子であったのです。しかし、やがてイエス様が裁きを受けられる時、彼は身の危険を感じてイエス様を拒むのです。これは全ての人がたどる道であることを示しているのです。心では分っていながら、その生活では神様の御心に従いえない矛盾したことが起こります。使徒パウロは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ロ7:15,17、18)と人間の心のありのままを告白しているのです。
 自然の生きものには帰巣本能があります。それは理屈では説明のつかない不思議な姿です。鮭は山間の清流で生まれ、大海を回遊し、故郷の同じ清流に帰ります。ウミガメは岸部の砂浜で生まれ、大海を回遊して帰ります。ウナギは遠い海で生まれて川に帰り成長します。人の心は命と存在の根源である父なる神様のもとに帰り、平安を求めるのです。それが霊的存在としての人の心情であるのです。神様から離れた人は、様々な道を求めて迷います。イエス様は言われます「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神様)のもとに行くことは出来ない。」(ヨハネ14:6)「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20、21)と。神の国は、キリストによって示された真実の神の愛に生かされているところ、神様の臨在があるところに存在するのです。永遠の命こそは死後の天国に限定するのでなく、天国、即ち、神の国は神の愛に生きる「命」であるのです。今、現在、キリストの道、罪赦された神様の愛に生きる現在でこそ神様が共におられる永遠の命に生きることになります。天に送った家族も、キリストによって与えられる愛の絆によって共に苦楽を分かち合うことこそ変わらない永遠の命に生きる感謝と喜びの時であるのです。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)
家族がキリストを信じる時、神の愛に生かされ、家族が、天に送った家族とともに、神の国を永遠の今に生かされ、感謝と賛美とが「命」となり、希望となり、力となり、平安となるのです。感謝。

 


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