2011年 9月25日 礼拝メッセージ 
「人は交わりに生きる」詩編133編1−3節
人は、一人では生きて行けません。両親の間に生まれ、愛情を持って育てられ、大きくなって友が出来、友と遊び、学びながら成長します。世間に出て人と出会い、交わって人生を送ることになります。和辻哲郎は「倫理学」という本の中で「人は、人と人との間に生きて人間となる」と言う趣旨のことを言っています。倫理の「倫」は「仲間」と言う意味で親子や夫婦、友達を意味しいています。そこで共に生きるための「理」、即ち、それは「きまり」「道理」「秩序」ということを表しています。人の道を人と共に約束によって生きることで「人間として」生きることになります。ただ自分のことだけを考えて生きるとすれば、それは人の道の外に生きることになるのです。
詩編の133篇の1節「見よ、兄弟が共に座っている。何と言う恵み、なんという喜び」と歌っています。この歌は都詣の巡礼の歌と記されています。実際は127編の内容のように知恵の教訓の性質を持っているように理解されています。家族が睦ましく共に座り、おそらく、家族がそろって食事をしている安らぎを表しているのです。おそらくダビデの作であれば、アブラハムの時代から親族を中心にみんなで家長を中心に家を守り、育ててきた「家」を思い出し、苦難と搾取のエジプトの時代も家族(氏族)が助け合ってきたのです。そしてカナンに帰ってきて農耕を中心に生活も変わり、いよいよ王を立てって国をまとめ相互が助け合うことになり、家族の助け合いや生活様式も変わり、かっての麗しい家族の相互協力と扶助が失われて来ていた現状を憂い、その過去を回想しながら「見よ、兄弟が共に座っている」ことを「めぐみ」即ち、神様の賜物、祝福であり、その「喜び」の素晴らしさを回想してこの歌のように家族が睦ましく共に生きることを勧めているのです。この歌が捕囚の後に作られたのではないかという説では、イスラエルとユダの国が崩壊し、バビロンに悲惨な捕囚となり、やがて回復し、帰国したユダヤの人々は戦乱と捕囚で、かっての家族の麗しい交わりと相互扶助の在り方が失われていることを嘆き、教訓として歌われたとも考えられるのです。
今日の日本ではファザーレス・ソサエティーと言われるような家族崩壊の時代、高度な少子化と高齢者の社会現象で健全な家庭が見失われてる現実があるのです。絶縁家族の中で孤独死の日常化、美しい自然の動物の親子の愛着も、人の生活では危うくなり、幼児虐待や殺意の悲劇が日常化し、ニート人口の増加や、高齢者の死を隠蔽して年金を受け取る犯罪が顕著である社会なのです。全く、人間性を失った現代であると言えます。
このような現実の中で詩編133編は今日への自戒と人間のあるべき「道」、人の幸せと家庭のあるべき「姿」を教訓として行くべき道を教えているのです。
「兄弟が共に座っている」は口語訳では「兄弟が和合して共におるのは」となっています。
ルターはこの言葉を「睦ましい」と意訳しています。単に座っているだけでなく、家族の「睦ましい」情景、共に「和合」している麗しさを意味しています。家族が助け合い、力を合わせ、互いに補い、「共に」即ち、「仲間」として生きる幸せを描いているのです。この幸せの土台はどこにあるのかを示します。それは「何と言う“恵み”」であろうかと言います。その「恵み」こそ、神の賜物を表しているのです。神様を信じる者が経験する神様の「恵み」なのです。その恵みの実が言い表わせない「喜び」として結実するのです。
2節、3節で神様の「恵み」がどのようなものかを、美しい情景を通して描き表されているのです。「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、 ヘルモンにおく露のようにシオンの山々に滴り落ちる。」とあります。第一に、前半のアロンを中心に神様の恵みをいい表すのです。アロンはモーセの兄であり、イスラエルの人々の祭司の家系として人々に神様の祝福を執り成す立場であるのです。そのアロンの髭に「油」が滴り落ち襟を濡れ潤す情景でその「恵み」を表しています。今でも中近東では男性は髭をたたえるのが習慣であるのです。古来、男の髭は麗しさと威厳を持ち、家を守り、保ち、支える象徴であるのです。一家の平安の石地を表しているのです。その髭に「油」が滴る。即ち、「油」は古来、聖霊を象徴しました。イスラエルでは祭司と預言者,王は神の権威の象徴であって神の御心によって建てられるのでした。その神様の臨在を表すのが「油」であるのです。「油」即ち、「聖霊」は神様の御心であり、その臨在であるのです。神様の祝福、家の建てられる基礎であり力であり、その道は神の御心である聖霊が満ち溢れるところに表されりことを教えているのです。
「兄弟が、睦ましく、和合して、共に座っている」のは神様の御心なる聖霊が臨在される、その御心に生きるところに初めて真実の神に愛されている家族が生まれるという。イエス様が、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34,35)と言われているように正に、神を信じ、罪赦されて神の愛に生きるようになる時、真実に愛し合える人になることが出来るのです。そこに喜びと感謝が、賛美が生まれる家族が生まれるとのです。
第二に、詩は「ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる」と言うのです。ヘルモンはレバノンの南部にある3千メートルを超す万年雪を頂く壮麗な山です。その露は地下水となってバニアスの水源に絶えることなく流れ、やがて川下ってガリラヤ湖に水をたたえるのです。イスラエルの平地に命と恵みをもたらすのです。そのようにシオンにも絶えることのないいのちの露が降り、約束の地イスラエルに神様の祝福が滴るようになると言ってるのです。シオンは神の山、エルサレムであり、その神殿は神の臨在を表します。正に、そのエルサレムを目指して礼拝に行こうとする巡礼の賛歌であるのです。シオンの約束はすでに、求める人々の心の中に神の家族として息付き、神の愛に生きる喜びをもたらして下さるのです。人生の旅路にあっても神の御心によって家族にせられた喜びを分かち、やがてシオン、即ち、神の国、天国に会っても共に神を信じる「仲間」として喜びを分かち合うことになるのです。
人は、神様を信じて生まれる真実の交わりによって、初めて人間となるのです。神様を信じること神様と交わりに生きることであり、神様と交わることは人と共に生きる真実の交わりに生きることになります。

 


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