2011年 10月2日 礼拝メッセージ 
「無窮の恩寵と感謝に日々」詩編103編1―22節
 詩編の103編は「賛美と感謝」の詩であることで知られています。ある聖書の注解書は「この詩は、聖書信仰の木に咲いた最も清らかな花の一つである。」(ATD)と記述しています。言換えれば神の言葉、即ち、神様の祝福の約束が見事に描かれている。いや、神様を信じる人の計り知れない恵みと喜びが現わされているのです。最初の二節では「わたしの魂よ主を讃えよ」を3回繰り返します。“魂よ、内なるものよ”と自己の存在のすべてをもって、いや、今までの生涯を振り返り、過去、現在、今あるわたしは主に導かれ、守られ、支えられた恵みであることを呼びさまし告白しています。
 そして自己存在の中心である魂に言い聞かせるのです。「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と。口語訳は「そのすべての恵みを心にとめよ」と表現しています。“忘れてはならない”“心にとめる”と言うことは過ぎ去った過去を思いでとして留めるのでなく、“忘れるな”は日々の生活の中でこの時が、“主の恵み”によってあることを思いつづけることを言うのです。主の恵みに生かされている事が生活の土台になっているのです。だからこそ、「わたしの魂は、主をほめたたえざる」を得ないのです。そして使徒パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:18)と言っています。しかし、これは決して命令されて出来るものではなく、神様の恵みが体験されてキリストによって神様の御心に生きる者とされている時、その恵みによって心の底から、魂の内から「主をほめ讃え、感謝し、喜ぶ」ことが出来るのです。
 その賛美と感謝の根拠こそは3節から5節に告白されているのです。1、「主はお前の罪を赦し」2、「病を癒し」3、「命を贖って下さる」。そこで、先ず、神様が“罪を赦す”と言われることは「逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう。」(詩10:13)の言葉が教えるように、“神を信じない者、侮る者、逆らう者”には自分の罪を真実に認めることは出来ないというのです。罪は関係、即ち、交わりの破壊であるのです。パウロは人間の内面的実情を適切に指摘しています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ロマ7:15)。どんな人でもこの自己中心な思いに振り回されるのです。どんな人でも罪を犯す悲劇的な存在が人間であるのです。パウロは詩編53編を引用して「正しい人はいない、一人もいない。」と指摘します。善にして聖なる創造主なる神様は、創造の初め、すべてのものを想像し、御自分に似せて人を作り(創世記1:27)、すべての創造物を人の手にゆだねられた、即ち、支配をゆだねられたのです。(:28)しかし、人は、神から離れ、その言葉を忘れ、自己を中心に生きることになった時、神様との交わりは失われ、欲望と欲情のるつぼの中に混乱と対立、人間の歩みは戦争の連鎖となって今日に至っているのです。神様はこの悲劇を回復する道を神の御子イエス・キリストを通してしっかりとお示しになったのがキリストの十字架の出来事であったのです。欲望という名の愛ではなく、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)人間は罪のゆえに失った神様との交わりを、真実の神の愛、「愛する友のために命を捨てる愛」を実証するためにキリストは十字架の道、罪の裁きの道を歩み、罪を贖って下さったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9,10)神様との交わりが回復するのです。
次に、「病の癒し」です。神様の真実の罪の赦しは、現実の病める生活を正常化するのです。理不尽な病魔からの解放は、キリストの十字架の贖いの約束であるのです。神様との交わりは祈りの生活が始まります。神様の恵みはその全能の御力による可能性に生きることが出来る恵みであるのです。神様との交わり、「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ5:15)と約束しています。生活すべてにおいて神は奇跡の祝福を持って道を開いて下さると約束しているのです。キリストは「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)と約束されているのです。そして、「命を贖って下さる」と言う約束こそは「永遠の命」として神の御国に約束されている「死んでも生きる」(ヨハネ11:25)復活の希望を約束しているのです。このような恵みに日々生かされているクリスチャンは「その恵みをなに一つ忘れてはならない」(:2)感謝の日々となるのです。
 詩編103篇の6節から13節までには、イスラエルが神さまを信じて歩んできた歴を振り返り、エジプトの弾圧と迫害の中にも考えられない奇跡を持って民を解放して下さったことを振り返るのです。そして、14節から21節で神様の創造の御旨が回想され、告白されるのです。「塵にすぎない人間」をこよなく愛し、いく度も御心に背き、反逆する人を、愛であるゆえに信じ,待ち、救いの道をひらいて待って下さる神様、その恵みを何一つ、忘れてはならない。 今、心をこめて主を賛美しよう。103篇はその偉大な愛と憐れみの神様をほめたたえる頌栄で終わるのです。
「主に造られたものはすべて、主をたたえよ 主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。」(:22)

 


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