2011年 10月9日 礼拝メッセージ 
「失ったものを見出す喜び」ルカによる福音書19章1―10節
人が、失っているものに気付かないでいることは不幸なことです。わたしは一度だけ財布をなくしているのに気付かないでいたことがありました。教区会の例会で西宮市民会館から帰る時、駐車場の出口で自動料金支払いをすませて帰りました。家に帰ると西宮署から財布が届いているからとりに来るように連絡があり、“ビックリ”して早速もらいに行きました。西宮市民会館の料金所のところに財布が落ちていたというのです。甲子園駅の近くの人から届け出があったというのです。失ったことを知らない時は、あるという意識で何事もなかったのです。しかし、警察から連絡を受けた時は“ビックリ”、財布が無事でほっとしました。早速、もらいに行って拾ってもらった方の家にお礼に行きました。お菓子と礼金を持って行きましたが、礼金は受けとらないでお菓子だけを受け取ってくれて本当にホッとしました。財布には沢山のカードや診察券やお金が入っていたのでその時の親切は忘れることは出来ません。嬉しかったのです。
人は、大切なものを失っているのに、なくなっているのを知らない時でいることはなんと悲しく、不幸なことであろうと思います。財布がないのにあると思って食堂で食事をするとどうなるかということです。無銭飲食という犯罪者になるのです。「失う」ということをめぐって色々なことを考えると「失って」いることを知らなかったり、「ある」のに知らないでいる「失って」いるのもあります。それはお金であったり、能力であったり、立場であったり、資源であったり、人間関係であったり、人間性であったりします。「失って」いるということを自覚しても、しなくても「失った」ものを発見し、取り戻すことは嬉しいことと言えます。
ルカによる福音書の19章には有名なザアカイの記録が残されています。この物語の最後には「失われたものを捜し出して救うために来たのである」とあります。正に、ザアカイは「失われている者」として描かれているのです。しかし、実際にザアカイは徴税人の頭であり、金持ちであったと描写しています。(:2)彼の住んでいるエリコの街はトランスヨルダンからエルサレムへの通商路に当たり交易の要衝として関税をかけることが出来ました。また、ローマの直轄地であって課税はローマの政府のもとになされ、住民の反感を和らげる為にユダヤ人に請け負わせていた。請け負わせる金額に上乗せして徴税人のリベートとして収奪出来る事情があったのです。徴税人は権力と執行権をもって住民を抑圧するのが通常であった。情け容赦のない徴税は住民の反感を買い、反目状態にあったようです。表面的にはにこやかにおべんちゃらの一つも言って媚びを売っていた。同じユダヤ人であるのにローマ人の手先になって酷いことをしました。過重な課税は私利私欲であって人の困窮も顧みません。おまけにザアカイは徴税人の頭、長であるのです。地位があり、権力があり、金持ちときています。正にこれは人間性を失った守銭頭でしかないのです。もし、モーセの律法によれば許されない罪びとです。汚れた人間、罪悪人、神様の選びを捨てた人間として賎しめられていました。徴税人は罪悪人と同じ語であり、ユダヤの社会ではこのような人との交流はしてはならなかったのです。
 このような時にイエス様がエリコの町にお出でになった。ザアカイはイエス様がどのような人か知りたいと思ったのです。イエス様が行かれるところには多くの群衆が群れをなすので「背の低い」ザアカイは一目見ようと先回りしてイチジク桑の木によじ登り、イエス様を待っていた。突然、イエス様はザアカイの登っている木の上を見て「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(:5)と言われました。ビックリしたのはザアカイよりも、周りにいた人々であったのです。「あのような罪深い人間のところに宿をとる」とぶつぶつ言った。物語に描写は簡潔であるが、このイエス様の言葉にザアカイは、「財産の半分を貧しい人に施し」誰かから不正に徴税していると解れば当時の法規に従って「4倍にして返します」と言うのでした。少なくともこのやり取りでは、ザアカイがただイエス様が来て下さることが解って回心したのか、むしろ、ザアカイはこれまでにイエス様の“うわさ”を聞いていたのです。今までは神の国は律法を厳密に守ることだけに限定され、庶民は見下げられ、律法を読めない人々は見下げられていたのです。ましてや、異国の者と交わり利権に走る人々はユダヤ人でも見下げられ卑屈になっていたのです。しかし、イエス様は、見える正義から、見えない心の中の純粋な気持ちを注視して、たとえ律法を守っても人はこころに見えないが“憎しみ”を持っているのは“殺人”の罪を持つのも同じであり、人のものをほしいという欲望が“盗み”の根源になり、どのような人間でも神様の前に罪なき者はない、“罪を悔い改める”ことこそは神様の赦しを受ける前提であると言うことを示されていたのです。神様の愛に赦されて、神様の愛に生きることが人間の根源的な希望の道であると言われていたのです。イエス様の戒めは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)であったのです。
突然、イエス様がザアカイに「あなたの家に泊まりたい」と言われる。それは「泊らなければならない」と言う意味でもあるのです。神様の御心が失われているザアカイの家になくてならない者であることを示してるのです。勿論この物語にはザアカイの名をイエス様が知っておられたことは謎である。言えることはザアカイが“憐れみの心”を取り戻し、罪悪の悔い改めとして“損害の4倍を支払う”決意をしているのです。
ここで第一に、ザアカイは神の人イエス様が人々が見向きもしない自分の家に来て下さるという言葉に神様の愛と赦し、全く自分には救いの道がないと思っていたのに、進んで神である御子イエス様が来て下さることを目前にして、“悔い改め”人間性を取り戻したことにあります。ザアカイは自分を社会の大きな流れの中で偏見と差別、侮蔑と軽蔑に反抗しながら諦めと自棄(やけ)の中での間で自己保存に固執していました。強欲と傲慢の渦中にあって、孤独と虚栄のさびしく、惨めな自分の気付いていたのです。イエス様に会って人は愛しあって生きることなしに人ではあり得ない。神様はどのような人をも、愛しておられる。イエス様によって愛されている自分を知り、どのような人をもイエス様はわけ隔てなく受け入れ、諭し、真実の幸せの道、救いの道を開いていて下さることに出会って“悔い改め”て生活のすべてを根本からかえたのでした。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Uコリント5:17)
第二に、人間は“失っている”ことを知れば自分の存在の全てが変わるのです。ザアカイはイエス様を通して神様の恵みをと偉大さを知ったのです。現実には自分で生きており、努力して生活を築いていると思いがちです。しかし、創造主なる神様に立ち返る時、生かされている自分を発見できるのです。そこでは“感謝”と“喜び”があることになります。自然は神様の叡知によって創造され人を生かすようにされているのです。創造の業は神様の愛の業であるのです。
第三に、だからこそ、現実の日々の生活の中に“神様の愛”を信仰によって自覚できるときに、神様を愛する人々に、神様は共にいて支え導き、教え、助けて下さるのです。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。…わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ8:31、38,39)「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

 


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