2011年 10月16日 礼拝メッセージ 
「称賛の生み出す絆」フィリピの信徒への手紙4章4―9節
大阪では春は日展、秋には院展がある。米光兄(画家)から今年は招待券をもらって早速、心斉橋の大丸へ見に行った。今年は平山郁夫さんが亡くなられて出品がないのが淋しかった。新進気鋭の作家の作品も多かった。色々な“賞”があったけれども素人の目にはみんな秀逸な作品であるように思えました。画家はそれぞれの技法が個性となってオリジナリティーを描くことになろうと思います。私は、毎年自分が感動する作品に出会います。今年は“深海”と言う絵です。二匹の大きな魚が真中で泳いでいるのですが薄暗い深海、10分もじっと見ていると今まで何もいないような深海に無数の魚が出てきます。終いには貝などが浮き出るのです。絵画は比べていい、悪いでなく、人が“驚き”“感動”したということがその作品の素晴らしさであるのではないだろうか。ゴッホの絵画は世界的に有名であり、日本でも‘89年安田火災が58億円で購入したと言われている。しかし、ゴッホの絵は生前たった1枚しか売れていないという。時の人の考えの流れ、世に仕組みなどが集約されて人の注目となったり、値打ちが決まることになります。
 志賀直哉の小説に「清兵衛と瓢箪」というのがあります。清兵衛は12歳、根っから瓢箪が好きで夢中になって瓢箪を磨きあげて、でき上がった瓢箪を見て悦に入ってる。父親は子供のくせにと清兵衛の瓢箪作りが気に入らない。ある時、清兵衛は街の中を歩いていると屋台で瓢箪を売っているのに出会わせ、見ていると清兵衛には震える程の気に入った瓢箪があった。それを10銭(今の金で200円)で買う。大事にしていた。ある時、夢中になって学校に持ち込み、修身の授業中に瓢箪を磨き続けていると先生が発見して怒って瓢箪を取り上げ、家にまで行って居合わせた父親に注意する。父親は激怒、玄翁(げんのう)で部屋の中にある綺麗な清兵衛の作った瓢箪をことごとくたたき割る。先生はとり上げた瓢箪を小使さんにくれてやる。小使さんは骨董品屋に持ち込む。5円で買うという骨董品屋の渋る亭主とやり取りして何と小使さんの給料の4カ月分の50円(今の10万円)で売る。その後、骨董品屋の主人はある富豪に600円(今の120万円)で瓢箪を売ったという。清兵衛はその後、絵を描くことを始める。父はまたもそれにも小言を言い始める。瓢箪のことは誰も知らないということで小説は終わる。
その人の持っている素晴らしい資質が、かわいい息子でありながらその子の優れた資質を失わせている事に現代の人間教育への本質的な警告があるように思います。この話の流れの中には誤解、間違い、批難、怒り、悲しみ、失望、満足、利得、背信、喜びが綾なす中で親子の関係、師弟関係などの人間関係が失われて行っています。これは多くのことを教えてくれます。 今年の関西聖会では講師が“五つの愛”による交わりの形成が語られました。その一つに“ほめる”ことによって良いコミュニュケーションを形成する協調がありました。それは教会が健康に形づけられることによって発展する鍵でもあるのです。
 フィリピの信徒への手紙は獄中書函と言われ使徒パウロが晩年、ローマの獄中から送られた書函で知られています。失望と苦悩の中にありながら主の御心に生きる喜びを「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。… この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(フィリピ1:20―24)パウロにとってヨーロッパで初めて洗礼を授けた記念すべき地であったのです。しかし、この教会は交わりの亀裂が生じていたのです。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのです。他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」(フイリッピ1:15−17)福音を伝えていながら、そこには私欲や妬みや闘争心から働きをしようとしている者もいる状態です。見たところ主にある兄弟姉妹の教会であって内情はいがみ合いと虚栄、自己名誉と自尊心が教会の暗い不健康な霊的状態であったのです。この不一致の原因の根底にはユダヤの律法主義の押し付けや、完全主義に固執する人たちがいたのです。そのような時、パウロは獄中にありながら心を痛め、“何時も喜べ”と手紙で繰り返します。フイリッピ書函は「喜びの手紙」と言われ、知られています。しかし、そこには喜べない現実があるからこそ「喜べるようになりなさい」と勧めるのです。パウロは「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」(フイリッピ2:1−5)と勧めるのです。「キリストにある交わり」を作ることこそが手紙のテーマになっているのです。コイノニア(交わり)と言う言葉が幾重にも繰り返し用いられているのも特徴であるのです。「福音を伝える」前に「真実に福音に生きている」ことが不可欠であるというのです。交わりの破壊は、間違った教えの対立、人間的な見栄や私欲に悩まされることへの勧めであるのです。
だから今、心に留めなければならないことは「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」(フィリピ4:6)と言うことです。主を見上げ、主に学び、主に従うところに“神様の平和”があるのです。(:7)だから、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(2:5−8)この“キリストの謙遜”に生きるとき「神の平和」が実現されるのです。神の平和は喜びであり、真実のキリストの交わりが生まれるのです。
そして、“終り”(4:8)に“真実”なこと“気高い”“正しい”こと“清い”こと“すべて愛すべき”こと、“徳”アレテーとしてどんな人でも認める生活を幸せにする道(ギリシャの古来から求めていた教え“哲学”、人間の幸福を実現するアレテー“徳”)をおろそかにしないで、「わたしから学んだこと」キリストの福音を実践する“キリストの愛”に生きる恵み、即ち、「わたしから受けたこと」「わたしについて聞いたこと」「見たこと」を『実行しなさい』(:9)。そうすれば「平和の神」の約束である素晴らしい活けるキリストの教会が実現すると勧めているのです。
わたしたちの教会もフィリピの手紙に学び、現状を診断し、キリストを見上げ、キリストに学び、主に喜ばれる教会となろうではありませんか。真実のキリストの教会、主に喜ばれる教会は救われた一人ひとりが、真実にキリストの十字架に生き、従うところに実現出来ることを忘れてはならないのです。「キリストに近づけば近づくほど、人が、一つになる」一致があるところに平和があり、祝福があり、喜びがあるのです。そこにリバイバルが約束されているのです。
私達には教会を描く信仰と言うキャンパスが与えられているのです。みんなで祈り、協働の制作で造り上げるのです。同じ材料でもその群れの趣が生まれてくるのです。日本画を見ながら洋画とは違う、また、似ているけれども中国画とも違う画風があるのです。阪神チャペルには日本という土壌と尼崎、阪神間の風土の中でキリストの教会が描かれることを祈ろうではないか。互いの信仰の持ち味を生かして、“称賛に値する”ことを心に留めて“広い心”(:6)で受け入れ合う、“キリストの愛のコイノニア”教会を何時も目指して福音に生き、福音をのべ伝えて行こう。そこに教会の発展がある。

 


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