2011年 10月30日 礼拝メッセージ 
「真実の自由と人の幸せ」ヨハネによる福音書8章31−36節
人間の「自由」は何にも代えがたい人間固有の性質であって、「自由」を失う時、人間性を失うことになります。アメリカの独立宣言は「すべての人間は平等につくられている.創造主(神)によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている」と言っています。この思想は啓蒙思想の流れから、ジョン・ロックの哲学思想から生まれたと言われています。その根本にあるのは聖書に示された言葉にあるのです。
人間は、古い昔から共に生きながら、農耕が生活の土台になると富の集積が一部の人に集まり、富が一部の人に集まると道具が開発され、さらに生産を伸ばし、その富が弱者を支配するようになり、道具が武器となり、人を支配は、支配されるものを搾取する形が出来て、社会には経済と武具が発達して戦争が起こります。そして人の自由が奪われ、対立が起こるところでは弾圧や搾取、差別や偏見が生まれるのです。これが人間の歴史の営みの足跡であるのです。
 人が、個人の尊さを認め、生きることと自由を認め始めたのは16世紀のルターの宗教改革に始まると言われています。ルターは聖書の教えをゆがめていた中世の教会を糺したのです。そのきっかけは、ローマの聖ペトロ大教堂の建設のための資金として贖宥(免罪符、お札を買うことで罪が許されて天国に行ける。)の販売にありました。この贖宥の効力への疑問を訴える論文(95ヵ条)をウイッテンベルグ(ドイツ)の城門教会の扉に張り出し、世に問うたのです。聖書が教える真実の信仰は、第一、「福音を信じる信仰による」第二、「行いによって救われるのでなくキリストの恵みによって救われる。」第三、「救われた人は神に仕える祭司、福音を宣べ伝える伝道者。」であると強調したのです。そこにこそ真実のキリストの弟子があるのです。その福音、イエスの教え、イエスの差し出される罪の贖いの事実こそは、人の生命の尊厳と自由の尊さを取り戻す、即ち、救い、解放があると言っているのです。
 イエス様は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)と言われています。ここで「本当の弟子」と言われている背景には、イエス様を信じているが、実際には見せかけの信仰にすぎないのであれば、それは「本当の弟子」とは言えないというのです。「わたしの言葉にとどまる」と言うのは単に「とどまる」の出なく、その言葉は「メノー」と言う言葉で「生活する」「住まう」と言う意味なのです。37節には「わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。」と言われています。アブラハムの子孫だと言いながら現実ではわたしを無き者にしようとしている。それは「わたしの言葉」即ち「福音」に「根付いていない。」(口語訳)からであると言っておられます。確かに「受け入れる」(共同訳)にも訳されるのですが、この「コ―レオー」というのは「場所を空(から)にする」「心を開く」と言う意味にもなるのです。心を明け渡して、キリストを受け入れる。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19,20)。これはキリストが「わたしの内に生きて」おられるのです。キリストの言葉、キリストの真理が、根付いているのです。このイエスの真理こそは、約束の聖霊であるのです。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)とあります。これは、とりもなおさず、「 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:24−26)という使徒パウロの指摘に至るのです。
第二に、イエス様を信じ、イエス様の言葉、即ち、真理に根差し、心を明け渡した「本当の弟子たち」を「自由にする」のです。キリストのある「自由」こそは「解放」であり、「救い」であるのです。ルターの有名な宗教改革三部作の一つに「キリスト者の自由」があります。その見出しに二つの定題(テーゼ)を書いています。
「◎ キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何ものにも隷属(れいぞく)しない。◎ キリスト者は、あらゆるものの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属(れいぞく)している。」という言葉を残しています。
この言葉は一見矛盾しているようですが、決してそうではなく真実に人を自由にし、人間本来の自由を示しているのです。人間の本当の幸福の「基本である自由」を教え、正に、この自由を発見することは人間の発見であり、真実の自分の発見であるのです。この自由こそはイエス様が「わたしの言葉にとどまるなら、わたしの真理を知り、あなたを自由にするであろう」(ヨハネ8:31,32)と言われた言葉の真意であるのです。今の私達の自由は誰にも束縛されない自分の思うままに出来ることであると考えがちです。それは責任のない放従であるのです。人は欲望によって生きます。欲望そのものは生きる力であり、命です。ですが、人とは、人と共に生きて家庭や社会が成り立つのです。自分の欲だけに生きるときに他の人のことは第二になり、無視するところに「罪」、即ち、生活、交わりが破壊されて行くことになります。聖書は「 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14、15)と言っています。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と言う言葉の意味は「真理はイエスキリスト」であるということです。ヨハネよる福音書14章6節でイエス様は「「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われています。命の道に至る真理、教えであるというのです。単なる教えであるのでなく、現実の罪深い人間を救う道であるのです。キリストは神様の救いの愛を示すために十字架にかかり、真実の神は人を愛するがゆえに、自分で解決できえない罪悪の根源である「欲情」を解放し、その欲情の罪性の贖罪を成し遂げ、キリストによって神様との交わりを回復して下さったのです。「キリストの心を心とする」(ピリピ2:5文語。)(“キリストと同じ思い”口語)ことによって「他人のことにも注意を払う」(:4)ことになるのです。注意を払う、責任を持つ、隣人を愛することを意味します。クリスチャンはキリスト以外のものからはまったく自由になり、キリストの愛に生きるからこそ、あらゆるものに責任、義務を負うことになるのです。だからルターは、使徒パウロの「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(Tコリント9:19)と言う言葉でその真意を説明しているのです。そして「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(ロマ13:8)愛は、愛する者のために義務を負うことになります。イエスキリストは、正に、神の愛を証明するために人々を救うために十字架にかかり犠牲を払って贖いとなって下さったのです。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:2)責任のない自由は放従であり、責任のない愛は情欲である。神のない愛は責任のない愛であり、神のない自由は責任のない自由であり、混乱と対立、虚栄の偽装、憎しみと悲劇となると言えます。
最後に、イエス様を信じたユダヤ人たちが、依然として、イエス様の真実の愛と救いを理解しないで自分たちはアブラハムの子孫であり、モーセの律法を守ることに固執していることへ「本当に弟子」となるように語られているのです。聖書をよく読んでみると「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ8:43、44)と言っておられるのです。間違った弟子たちに福音による愛と赦しでなく、自力の律法だけで救われるとする偽善をたしなめられているのです。
 クリスチャンは罪赦され神の子とされたのです。しかし、現実は赦されながら罪を犯すのが現実です。聖書は「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。」(Tヨハネ3:9)と記しています。決してこの表現どうりではありません。聖書の本文は通常,時制を進行形で表しているのです。それによれば「罪を犯しつづけません」であって「同じ罪を犯しつづけません」と言う意味であるのです。だからこそ、ルターが贖宥(免罪符)の効用に最初に「クリスチャンの人生は悔い改めの日々である」と言っているのです。だからこそ「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル12:2口語)と言う言葉が裏付けられているのです。イエスキリストから一時も、目を離さず、その「み言葉に根を下ろし」(8:37)“キリストの本当の弟子”として真実の自由と愛に生きて行こうではないか。
今の時代の根本的な人権としての自由は、キリストの愛の福音によって裏付けられてこそ生きるものとなるのです。感謝。


 

 


 ページのトップへ    2011年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ