2011年 11月6日 礼拝メッセージ 
「素晴らしい祈りの生活」マタイによる福音書6章5‐13節
 イエス様を信じる生活の特徴は「祈りの生活」であるのです。信仰がおろそかになると祈ることからも遠ざかります。確かに、日本の習俗として日常の生活で「お祈りしています」と言う時は、御多幸を祈る、全快を祈る、成功を祈るというように物事がうまくいくようにと言う「願望」であって、「願」架けである。一般には誰に「願」をかけているのかはっきりしない。極めて儀礼的な言葉遣いとなっています。
 イエス様を信じてクリスチャンになることは、創造主であり命の源である父なる神様との交わりを回復することです。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Tヨハネ1:3)「交わり」は平和であり、友好であり、友愛であるのです。神様から離れ、無視し、否定するとき人間は自己中心になります。そこに不信が生まれ、対立が、争いとなり、争いが破壊を生み、混乱を生み、悲劇となります。正に、それは罪悪であり、人は罪を犯さずには生きて行けないのです。人と共に生きるには“思いやり”がなければ一緒には生活できないでしょう。「神は愛である」(Tヨハネ4:8)と聖書は言っています。神様を信じることは神様の愛を知ることであり、神様の愛に生きることにつきます。愛と憎しみ、愛と猜疑、愛と対立、愛と争いは両立出来ません。キリストを信じることは、キリストに表された神様の愛に生きることであるのです。神様を信じ、知ることは自分を知ることであり、自分の罪深さを自覚できることにほかなりません。使徒パウロが云うように「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。」(ロマ7:24)と言う人間の罪深い弱さ、醜さを自覚できるところに神様は救いの道をキリストによってお示しなになったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9,10)そして神様の愛に生きることは、神様の言葉に生きてこそ神様の愛が体験され実現するのです。
「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」(Tヨハネ2:5)ヨハネ福音書には「あなたがたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:7,8)正に、キリストの言葉にとどまることは「キリストの愛にとどまる」(15:9)ことにほかなりません。言葉は意思の疎通であり、聞く人が応答して「交わり」が形成されるのです。キリストを信じていると言いながら実際にはキリストの言葉から離れていては、信じている事になりません。キリストとの「交わり」、即ち、キリストを信頼して、その言葉に生きていることこそ、キリストを愛している事になります。キリストに愛されているわたしが、キリストを愛しているのはキリストの言葉に生きることにほかなりません。そこに初めて交流が生まれます。この「交わり」こそ「祈り」であるのです。「祈り」があるところにキリストによって神様と交流が生かされている、即ち、そこに「生きた信仰」があると言えるのです。
 使徒パウロは「絶えず祈りなさい。」(Tテサロニケ5:17)「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:18)と繰り返し勧めています。クリスチャン生活の生命、力、喜びの実は祈りの生活から生まれるのです。祈りのない生活は、霊的な死を意味します。不信仰を意味するのです。祈りのないところには神様の祝福は見失われるのです。キリストを信じることは、キリストとの交わり、命の交流であるのです。主イエス・キリストが「いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と言われている約束は、キリストの言葉に生きる、キリストの愛に生きる、それこそが「生きた信仰の祈り」の生活にあるのです。
 英国の偉大な神学者P.T.フォーサイスは「最悪の罪は祈らないことである。」と言っています。祈らないことは神から離れることであり、忘れ、否定することでもあるというのです。そして彼は「クリスチャンの中に誰の目にも明らかな罪、犯罪、言動の不一致を見ることは実に意外なことであるが、これは祈らない結果であって、祈らないための罰である。」と言うのです。【フォーサイスの名著「祈りの精神」(斉藤剛穀訳、ヨルダン社刊)はクリスチャン必読の書です。】
 クリスチャンの霊的成長は祈りの生活にあるのです。フォーサイスは「祈りは精神を錬磨し誠実に実を結ぶ最高の学校である。」と言っています。祈りは、神様との交わりであり、その基本は神様の愛に応答することであって、その基本は神様の言葉を聞くことであるということです。忘れてならないことは神様の言葉を聞く基本は神の言葉としての聖書を読むことです。聖書を読むことは祈ることであるということです。それは読むということは自分の意志によることを意味するのですが、神の言葉は「読む」のでなく「聞く」ことにあります。聖書は読むのでなく神の言葉を聞くのです。そのみ言葉に応答することが祈りであって、神様の言葉は力となり命となるのです。単に知識が頭に入るのでなく身体、生活、行動の全生活の道として信じる人を神様の祝福の実が実るようにするのです。
 イエス様は山上の説教の中で祈ることを教えておられます。祈りの基本をそこでは二つ上げておられます。その一つは「偽善的な祈り」への警告です。立派なクリスチャンの祈りであるかのように美辞麗句、人に褒められようとし、人に聞かせようとする祈りへの警告です。祈りは演技でもなく、真実と誠実による神様との交わりであるということです。第二に、言葉数が多く、長ければいいというのではなく、真心をこめて祈ることを進めているのです。祈りは人の評価でなく、神様の喜ばれる祈りであるべきであるのです。長短で祈りの評価が決められるのでなく、真心こめて真実な気持ちで祈る祈りを言っているのです。イエス様は「気を落とさずに、絶えず祈れ」(ルカ18:1)と言われたのです。 「くどくどと祈る」(マタイ6:7)ことはいつしか説明になり、人に聞かせているようになると言うのです。だからこそ「隠れたところ」で祈ることを勧めています。祈りは祈る人と神様以外何ものもあってはならないことを意味するのです。霊的成長、信仰の鍛錬は祈りの生活で育てられ実を結ぶと言えます。公の集会の場の祈りは、また違った観点から時を別にして学ばねばなりません。
 そこで「祈り」は単なる「願望」ではなく、イエス様は「主の祈り」として知られている祈りの模範をマタイ伝6章9―13節に示しておられます。それは、最初の祈りは「信仰の告白」であるのです。その告白によって信じている創造主でありすべての根源である神様を告白しているのです。そして次に、「賛美」です。「御名が崇められる」その偉大な創造の知恵と力、自然を治め、人を生かす恵みの神様に感謝と賛美をささげています。そして神様の「御心」が実現する。神の国が地上に実現されることを祈るのです。そして必要が与えられ、神様の御心に生きる者として下さい。即ち、祝福を与えて下さいと教えられているのです。この祈りの原型が日々の生活で生かされ実践されることを教えられているのです。
 祈りは、神の御子イエス・キリストが共におられる証であるのです。「祈り」は「信仰告白」であり、「感謝」であり、「賛美」であるのです。そこに神様への信頼が「願望」となり、御心が現実になり、神様が生きておられる方であるというのです。ここでは「御心がなる」ということが、既成の決定事項であるという風にとらえられてはなりません。それはしばしば宿命的な運命論になり、「なるようにしかならない」「ケ・セラ・セラ」という頽廃的で、怠惰な性向に引きずられることになるのです。「御心」に生きながら不確かで、私達には不確定な未来だからこそ「祈り」が、神様の未来を切り開く大きな力として物事を切り開いていくのです。神の「御心」に生きるクリスチャンにとって「祈り」は未来を開く力であるのです。神の意志、その御心をさえも、御心に生きる信じる者の意志を受け入れ道を開いて下さるのです。「主の祈り」は天におけるように地にも実現することを祈るのです。天とは神様の御心の実現の場であるのです。愛と平和の完全な栄光に包まれているのです。そこには不完全で罪ある人間の贖罪がキリストの恵みによって実行され実現される、赦し、赦されて一つになり平和と愛が、正に一つになる、神の臨在が経験される場として生きることになるのです。終末の「御心」の実現を、キリストを信じる信仰によって、今、生きている現在、永遠の神の国が現実として経験されるのがキリストの福音であるのです。キリストを信じる信仰は「祈り」によって経験されるのです。祈るクリスチャンでありたい。生きた信仰、「祈り」に生きる、神様と共に生きる者であろう。

「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」
(ヤコブ5:15,16)

 


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