2011年 月日 礼拝メッセージ 
「神の国を見る喜び」ヨハネによる福音書3章1−5節
  先日、日本の都道府県幸福度の順位なるものが、法政大学大学院政策創造科の坂本光司教授によって発表されたというニュースがありました。その順位によれば福井県、富山県、石川県など一位から三位まで北陸地方が占めていました。近畿の大阪は最下位47位、兵庫は下から3番目、45位でありました。様々な評価の総合であろうと思いますが、大阪の人はみんながみんな日本で一番不幸な土地に住んでいるとは思っていないと思います。尼崎は電話番号も大阪と一緒で都市機能としては大阪圏に入ると言えます。幸福とは個人の主観の問題で千差万別であろうということになります。「住めば都」という言葉もあります。京都府でも42位ですが、その歴史的な文化度や都市の美観などからすると何ものも比べることが出来ない輝きがあると言っていいと思います。田舎には自然環境の素晴らしさなど、他所と比較できない良さがあります。人は、しかし、幸福を求めます。それは「満足」と「平安」が尺度になると言えます。一人ひとりの歩む道は千差万別であるのです。そしてどのように激変するかは誰ひとりわからないと言えます。阪神大震災、東日本地震と津波、和歌山の大洪水、また、経済混乱ではどれだけ多くの人々がその変動に攪乱されたか分りません。人生は、様々な世情の変化とともに、例外なく誰でも「死」で終わります。一つは、激変する人生にどのような変化があっても自分を見失わないで希望に生きる道。一つは、死という過酷な現実を克服する道。これこそが真実の幸福への道であるのです。この二つの課題を解決する道をイエス様が示しておられるのです。
 イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」と言われています。(ヨハネ3:3)“神の国”を見るとはどのような意味でしょうか。神の国とは神様が支配されることを意味します。神様は完全であって聖であり、愛なる存在であることから誠意、誠実、真実であります。公平公正であり慈愛に満ちた方であるとすれば、そこには欠けたものなく充足と充実、平和があるのです。「神の国」は神様のみ手の内にある理想であって、死後の天国であると考えがちであるのです。神様は“天”におられることは間違いのないことでありますが、創造主なる神は普遍的な神様であって存在を超越しておられる“霊的存在”であることを忘れてはなりません。不完全で罪多い現実の世界、争いと憎しみの渦巻く現実は“神様不在”の世界であるのです。神不在に見える現実を地獄と呼んでいるのです。イエス様は「新たに生まれれば」神の国を見ることが出来ると断言されています。“神の国”を見ることは、神様が共にいて下さることにほかなりません。
 「新たに生まれる」ことによって「神様が共におられる」神の国を見る経験ができると言っておられるのです。この問答をしているニコデモはファリサイ派の律法学者でした。律法を守ることが神の国を約束されることであり、律法こそは神の国を生きるしるしであったのです。しかし、現実は律法が人を裁き、差別し、対立させるものとなっていたのです。律法を守って、自分は完全であるという自負心を持っていることが、人を見下げ、区別し、傲慢にしていました。これは偽善的であって、罪深い自分を隠してごまかすことになるという現実を自覚していないのです。律法は、人の罪を自覚させるのであって、その自覚によって悔い改めて「赦し」を神様に求めて、神様の示される贖罪の道が経験出来るのです。
 しかし、ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ3:4)と言うのです。新たに生まれることは「再び生まれる」と言う意味にとっているのです。生まれ変わるのは「心」の問題であるのです。「回心」
です。現実の不幸の根本は神様をいなむことにあるのです。そこにあるあらゆる混乱と争いの根源が「罪」であることに気づかねばなりません。神様不在が、正に、地獄であり悲惨であるということです。そのことに目覚めて、まず、神様の前に「罪」を自覚することによって、悲しみ、悲嘆が「悔い改め」に導かれるのです。罪の悔い改めは「回心」にいたるのです。その回心は、御子イエスキリストの十字架に表された罪の贖いであり、その恵みを“受け入れる”“信じる”ことよってなされるのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4;9,10)イエス様が言われる「新たに生まれる」経験は「神様が共にいて下さる」経験であることなのです。正にそこに神の臨在があるのです。神の愛が、「神様と共に」いる、「神の国」を体験させて下さるのです。神の国はどこにあるのかの問いに「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。 〈ここにある〉〈あそこにある〉と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」(ルカ17:20、21)と言われています。その間とは「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)とあるように、神の愛が表されるところといえます。
 私たちの教会では三浦綾子読書会があります。昨日、「愛の鬼才」という西村久蔵さんという方の伝記を読みました。西村さんは明治31年生まれで札幌と小樽を中心に活躍された教育者であり事業家であります。北一条教会の長老としても奉仕された「愛の人」です。この方の自伝には大きな三つの試練が紹介されています。その一つは、久蔵さんのお父さんはお母さんの実家の南部屋という物産会社の小樽支店を任せられていましたが、事業をおこすことになり札幌で牛乳販売事業をおこします。順調に成長するのですが、生産に対して消費が伸びず苦悩するようになり、行き詰まるのです。縮小するのですが、家族だけでも大変になり沢山のミルクが余るようになるのです。家族で祈り、久蔵の弟、信吉を東京から呼びかえし手伝いをさせる。そして、ミルクで生洋菓子の生産を思いつき650円(当時のお金で大きな家が買える)の借金をする。準備に時間と試行錯誤が重なり開業する前に資金がなくなる。この絶望的な時に久蔵と家族は祈るのです。苦悩する日が続くのですが、この事を誰からともなく伝え聞いた母カクの実家、南部屋でかつて働いていた藪惣介という人があって、この人は資産家になっていて応援すると言ってくれて650円を借り受けることにし、打開し難を乗り越えるのです。また、第二次世界大戦の時、物価統制となって順調に伸びていた菓子事業も暗礁に乗り上げる。従業員が何百人にもなっていたのです。祈り、神に委ねていると北海道で資源として取れるものは魚であることに気づき、鯖の削り節を思いつき、取り組み、洋菓子屋が魚を商うことに転業するのでした。そして戦後の試練にも敢然と時局に対応し、パン屋を開き回復を成し遂げると言うのです。言葉では言い表せない苦悩を、神が共にいて道を開き助けて下さるという信仰による希望に導かれ、生きた主イエスの恵みの証でありました。
 使徒パウロは、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4:11−10)と記しました。神が共におられる。そこに「神の国」があるのです。
第二に、人の生涯は「死」で終わります。しかし、イエス様を信じる信仰には「死」は新しい始めであるのです。生きているときに神が共にいる経験を持つ者は、神の国に今生きる者であるのです。罪贖われ、救われている者にとっては永遠の一里塚であるのです。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:22,23)如何なる境遇にあっても「神様が共におられる」そこには解放と救いがあります。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Uコリント5:17)

 


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