2011年 11月20日 礼拝メッセージ 
「見えてきた新しい世界の希望」ヨハネによる福音書9章1−12節
 車も十年ぐらいになると色々なところが故障するようになってくるものである。私は80歳ぐらいまでは良い歯をしているので大丈夫であると言われた。最近、高齢になって歯が痛み、初めて歯医者で治療を受けたのです。堅いものを食べると奥歯が痛むのです。先日、小さな段差を踏みはずして、前のめりに転んで左手に荷物を持っていたので、右手でついてしまって顔面を打ち、目から火花が飛び散り、右手は腫れ上がり、痛みが酷くなったのです。見る見るうちに手の両面が変色し、内出血しているのです。レントゲンで見ると幸いに骨折はしていなかったのですが、骨が痛むのです。この一ヶ月間に起こった出来事で多くのことを知らされました。手は、部屋のドアのノブを開けようとすると力が入らない。栓の蓋も取れない。とにかく痛むのです。癒しを祈る前に、手や歯のことを思ったのです。起きても寝ても痛む歯と手を思い、健康な時、何も考えないで生活している自分の姿を思うのです。その辛さの中で、痛みのない歯や手がどれだけ自分の生活を支え、不自由なく、快適にしていてくれていたかを思ったのです。右手は字を書き、箸を使い、栓を抜き、よく働き、よく支え、よく思うように動き、働いたことか。感謝がこみ上げてくるのです。元気である時にこそ、生きている、生かされていることへの「感謝」を忘れてはならないことを痛切に思うのです。
 ヨハネによる福音書9章には「生まれつき目の見えない人」の記事があります。イエス様と弟子たちは通りすがりに目の見えない人を見かけられたのです。弟子たちが「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねたのです。イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(:3)と答えられています。日本でも人が不幸になったり、重い病気になったりすると、何か悪いことをしたのかというように思いめぐらすことがあります。戦中、戦後、私の家族は裕福な生活からなれない田舎へ疎開し、そこでまた風水害に出会って困窮のどん底になりました。両親は苦しい時に子供たちに「うちの祖先は明智光秀の家臣であったので謀反の罪がいまもこのような苦しみになるのだ。」と云ったものです。祟りの伝承はどこでもあるようです。ユダヤでも「罪がなければ死もなく、不義がなければ病もない。」ということが律法の解釈の伝承の中で言われていたのです。病は、罪の結果として見られていたのです。そこで弟子たちは「生まれつき」の盲人は、自分の罪であろうか、生まれながらであるならば本人の罪ではあり得ない、それは親の、祖先の罪であるのではないかという疑問が湧くのです。それもモーセの十戒に「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う。」(出エ20:5)という言葉があるのです。親や、祖先が犯した罪があるから、この人は運命的な苦悩を脊負っている。日本で言う因果報応ではないかと問うているのです。言換えれば、自分が罪を犯したのでないのにどうして親の罪や先祖の罪を背負わなければならないのか。ユダヤにもおそらくミシュナー(律法を解釈した口伝)への密かな疑問が民衆の中にあったと言えます。
 イエス様はこれをハッキリ否定されます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(:3)この人が「生まれつき盲目」なのは「神の業がこの人に現れるためである」というのです。逆境や試練、重い病や事業の倒産、家族の離散などの悲劇は祟りのためという考え方が、しばしば日本の社会において伝統的にあるようです。過去の出来ごとに不幸の原因を探し、自分の不出来を嘆き、過去を回想して嘆くのです。そこには解決はないのです。イエス様は「神の御業が現れるため」と言われるのです。聖書の中で盲目の人の癒しの話はありますが、ここ以外には「生まれつき」という記事はないのです。「生まれつき」ということに、このテキストは注目していることが解ります。どうしようもない過去の中に解決を求めるのでなく「神の業が現れる」、いや、「神の業を現わすことを約束して下さる」という「未来」があることを言われているのです。その約束は「光」と約束されているのです。イエス様は理解しがたいことをされるのです。土を唾でこねて泥を作り、盲人の目に塗ると、シロアム(使わされた者)の池に行って洗うように言われるのでした。彼は、言葉通りに池に行って目を洗うと目が見えるようになるのです。(9:6,7)
 ここで学ぶべきことは、主イエス様は、如何なる人生の試練をも宿命的に「しょうがない」「諦めが肝心」「なるようにしかならない」という世捨て人のような消極的、絶望的、諦観的な思いから解放して下さるということです。そして「私は世の光である」、希望の光、救いの光として、私たちを「世の光」として用いて下さるのです。(マタイ5:14、16)「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)
 次に学ぶことは、イエス様が唾で土を練って泥を作り、その盲人の目に塗られたということです。そして「シロアム」という池に行って洗いなさいと言うのです。泥を目に塗ることすら何を意味するのか誰にも理解できないことだと言うことです。ましてや、盲人は見ていないのですから11節に後で人にどうして癒されたのかを聞かれた時に「土をこねて私の目に塗り」と言っているようにまさか、唾で土をこねて泥を作るというようなことは解らなかったと言えます。弟子たちは不思議で、理解困難なこの仕草を見ていながら、泥を塗られた盲人はイエス様の言葉に従ってシロアムの池に降りて行くのです。池と言ってもせまい穴倉のようなところを、階段を伝って3メートルぐらいは降りなければならないのです。何が何だか分からないが、とにかくイエス様の言葉に従ったのです。視力を回復する。光が見える。景色が見えたのです。自分を囲む景色が、見えなかった景色が見えたのです。自分がいる光の世界が見えなかった。その光に満ちた世界が見えたのです。彼が、家に帰ると近所の人々が集まり、物乞いをしていた惨めな人が(:8)、目が開いたというので驚いているのです。人々が、彼をファリサイ派の律法学者のところへ連れて行くと、そのいきさつを聴いて言うのです。「今日は安息日であるのに何故人をいやしたのだ」(律法では“安息日の治療行為”は仕事だから禁止していた)ということから、その人は「罪人」である。また、「罪ある人がこのような“しるし”を行えるのか」という者もいた。そして人々は癒された盲人に「お前はどう思うか」と言うのでした。親を巻き込んだ議論の後、もう一度「あの人(イエス)が罪深い人であると知っている。どう思うか。」(:25)と詰問して議論の末、彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。」(ヨハネ9:30−33)彼は、イエス様が神であることを告白しているのです。そして、神様が苦しんでいる人を見過ごされないことを証ししているだけでなく、ファリサイの律法学者が、律法の真実の精神を見失っていた事を言い表すのです。イエス様は言われている「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27,28)。だからイエス様は、ハッキリと言われる。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネ9:39)見えるファリサイ人たちは、実際は、自分で神様を知っている、御心に生きていると言いながら、実際には神様の真実が解っていない。見ていない。何も知らないでいる。光のない、闇の世界をさまよっていると指摘されているのです。
 泥を塗ると言う謎、解らない、愚かしいと思われることであるけれども、それが「神の言葉」であるからこそ従う人に恵みの道、解放の道が開けてくることを教えているのです。苦しみ、悲しみ。孤独、暗闇の不安を持つ人にとって、今、あなたの目を見えるようにして下さるという恵みの神の言葉と信じて行動する、従う時、そこに「光」が待っていたのです。光が見えると言いながら、霊的な心の目が真実の神の愛と恵み、真実の神の実在を見ていない闇の世界にいる愚かさを示しているのです。使徒パウロは実に明快に言っています。「 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:24−28)神様を信じるのです。人生の如何なる道においても「万事を益として下さる」ことを信じ、どのような現実の中にあっても自らの愚かさを知り、謙虚になるところから真理の「光」が闇の心に差し込んで希望を持って歩んで行くことが出来るのです。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」 (エフエソ5:8,9)
             

 
【今週のみことば】
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」 (Tコリント1:18)

 


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