2011年 11月27日 礼拝メッセージ 
「待ち望む日々の歩み」マタイによる福音書13章1−9節
 人間の生活は期待することを目指して生きているといえます。生きるために何が必要か。その必要を実現することでその人の生活の歩みが決まることになります。農家の人々が収穫を期待して畑を耕し、肥料を準備し、畝を作って種を蒔くのです。蒔いた種が育つと雑草をとり、生育を助けます。そして実がなるのを待つのです。その期待こそが工夫と努力を生むことになるのです。
 マタイによる福音書13章には有名な「種まきの譬」の記事があります。イエス様が、種を蒔いて育つ様子を語られています。折角、福音のメッセージを聴いても、その実を結ばないのは残念です。「よい地」に蒔いて百倍、六十倍、三十倍の“実を結んでほしい”という願いを持って語られていることは明らかであるのです。そのことはヨハネによる福音書15章8節で「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」と言われているのです。イエス様の十字架の罪の赦しに預かった者は、永遠の命の約束を受け、喜びに入れられた。神様は素晴らしい愛であり、慈愛に満ちた方であると“栄光を帰して”ほめたたえることが出来るのを願われていることが語られているのです。イエス様を受け入れ、その“み言葉”に生きる決心をして従ってきた時、想像もできない多くの実を結んだという喜びです。それは単に実が結ばれたというだけでなく、最も素晴らしい実は心に結ぶ実であるのです。実際的な物質的生活の実が結ばれることは素晴らしいことではありますが、人は、どのような時にも内面的な心の豊かさの実が結ばれていなければ意味がありません。それこそが使徒パウロが指摘している「聖霊の実」であるのです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22,23)。このような内面的なクリスチャン品性の実こそ全能の神への信仰が力となり、希望となるのです。使徒パウロはきっぱり言います。「何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)「、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8:37口語訳)「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ8:39)。
 そのような勝利的信仰の実を結ぶためにイエス様は四つの事例をあげて種まきの譬をもって教えられるのです。その第一は、道端に蒔かれた種です。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」(マタイ13:19)。この譬は蒔かれる地場の問題を指摘しています。神の言葉が道端にまかれるとしたらどうなるのか。道路は人や、車が通るところで昔から平らにして地を固め、砂利をひいて人が往来する。今でこそ舗装して「種」を蒔くことは普通では考えられない。道に種がまかれては根差すこともできない。水分を吸収することもできない。種のまま乾燥し、命を失うことになります。その状態を「悪人が来て、心に蒔かれたものを奪い取る」と擬(なぞら)えているのです。「心」が道端状態であることに注目しなければならないのです。口先でイエス様を信じているとは言いながら、心や思いは依然と過去の習慣や、世俗的な思いに支配されている状態であり、実際の生活ではすぐに気が変わる皮相的な信仰を言っているのです。第二に、「石だらけの畑」にまかれた種で畑の石地に芽を出すが、根を張っていないので日が昇るとたちまち枯れてしまうというのです。確かに、イエス様に出会い、救いを体験して喜んでいるのであるが、しっかりした御言葉に根差していないために世俗的な喜びや快楽の情感に振り回されて立ち消えになることを言っているのです。信仰は体験であり感情が伴なって意志として生きる力になるのです。そして悟り、体験を通して理解が確信となるのです。しかし、イエス様の御言葉が生活に中で日常的に育ち、芽を出し、花を咲かせ、キリストの香りが漂い、実が実のることが大切であるのです。このような感情に支配される信仰は様々な試練や、迫害や、非難にさいなまされると信仰を失うのです。信仰は、そのような試練の中でこそ力となり困難な中にも希望を失わない命があるのです。感情的な信仰を戒めていると言えます。第三に、「茨の覆う畑」に蒔かれた種を指摘しています。土地を耕し、種をまいて育ててきても手入れを忘れて遊び、快楽にうつつを抜かしているとすれば、雑草や茨が覆い、折角、芽が出て育っているのに枯れてしまい、実らないことになるというのです。土地の問題はよいのですが、種をまいた後の手入れが課題であるのです。作物は蒔きっぱなしで手入れをしないとみるみる雑草に覆われてしまうことになります。イエス様はそのことを「世の思い煩いと富の誘惑」と指摘されるのです。「母なる教会」とカルビンが言っているように、信仰を育て、強くする「母」こそが教会であるのです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Tコリント12:27)一人一人の信仰は、キリストの体によって生かされ、生きるのです。
第四に、「良き地に蒔かれた種」とは「み言葉を聴いて悟る人」であると言うのです。「悟る」ことは御言葉に生きることを意味します。先ず、み言葉に根差す、そして手入れをして育てることにつきます。ヨハネによる福音書15章で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(:5)とイエス様は言われています。教会生活をおろそかにしては、信仰は育たないのです。教会に健康に根付いて、イエス様の愛と誠実が実を結ぶと言えます。神様のお言葉の種は、神様との交わりを中心とする生活に導かれるのです。クリスチャンは日曜日を中心に生活の営みが建てられています。日曜日こそ創造主なる神の御業の始めであるからです。生かして下さっている神様の恵みを思い、愛して下さる神様の慈愛を思うのです。そして、人間を真実に愛し、いとおしみ、御子イエスキリスト通して死からの復活を成し遂げて下さった記念の日として覚える事でもあるのです。日曜日は教会に集まり、キリストの言葉に養われ、心を養う大切な日なのです。そこから日常の生活の希望と勇気が与えられることになるのです。誘惑と富の惑わしを克服して約束されている神様の祝福の実を結ぶことになるのです。
 先日、教会の礼拝堂のベンチの塗装をしてくれた林工務店から、創業者のお父さんが96歳で帰天されたとの知らせがありました。桃谷のナザレン教会の長老として大きな業績を残し、また、大阪朝梼会の創設元老として大阪キリスト教界にも貢献されてきたクリスチャンです。温厚で祈り深く、敬虔で祈りの人でもありました。御家族親族約90人の方々に福音を伝えられてきました。良き地に蒔かれ、み言葉が根付き、み言葉を実践し、み言葉を伝える信徒としてイエス様第一の人生でありました。キリストを見上げ、キリストに従い、キリストを目指して進もうではありませんか。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
(フイリピ3:13,14)

 

 


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