2011年 12月4日 礼拝メッセージ 
「知られざる恵みに生かされて」マタイによる福音書6章25−34節
 日々の生活において誰でも思い悩むことは避けて通れないと思います。一家の主婦であれば家計のやりくりのこと、学生であれば試験や進学のこと、会社では仕事や人間関係のこと、経営者は組織の運営や事業の収益のことなど、置かれたところで「思い煩い」は付いて回ると言えます。使徒パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」(フィリピ4;6)と言っています。イエス様を信じる人にとっては、そもそも「思い煩う」ことはないのだと言っているのです。しかし、現実には厄介なことが起こることが多いのです。
イエス様は、マタイによる福音書6章19節から24節で、お金に執着して生きる人間の本性に対して、お金に振り回される愚かさを指摘して、真実に人が幸せに生きる指標を示されたのです。それは、金にとらわれないで、金を支配するという生活の基本を、「天に富を積む」と教えられたのです。そして「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)ということを生活の原則にすることによって、どのような「煩い」も克服できる道、開放の道を示しておられるのです。主は25節からその「思い煩い」について、根本的に教えられました。「だから、言っておく。自分の“命”のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。“命”は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(6:25)この言葉はよく読んでみるとどうしても辻褄(つじつま)が合わないのです。命のことで何を食べようかということは普通のことであり、命を維持し、生きて行くのには当然食べるものがいるのです。命のことで食べるものの心配をするなということはどういう意味なのでしょうか。そもそも“命”という言葉は新約聖書の言葉であるギリシャ語ではプシュケーという言葉であって“命”と訳されているのですが、これは普通には“魂”というように訳されるものであるのです。魂こそ命であるという語彙は、一般的ないのちと違って人間の根源的な霊的な存在としての霊魂の命を言っています。だからこそ食物や着物の問題ではなく、根本的に命、霊魂を通して、命と存在の根源者である神様にまみえるのであれば、どのような「思い煩い」「試練」や「困難」も克服できると約束されているのです。
 イエス様は、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(:26)そして、「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」(:28−30)と言われるのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(:27)「あなた方は価値ある者」「何にも比べることのできない存在なのだ」と言われると共に「何と信仰の薄いものよ」と嘆かれるのです。反面、そこには「しっかり信仰に立ちなさい」ということが指し示されているといえます。
 「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(:32)今までもあなたの必要を備えて下さったではないか。忘れてはいけないと言っておられるのです。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。」(イザヤ55:1)私たちはしばしば、困難や物事が思うようにならない時、自分はこんなに神様に従ってきているのに、どうして色々な試練が来るのだろう。そして、他人のせいにしてあいつが悪い、こいつのせいだ、他の人間はいい加減なのにうまくやっている。信仰がゆらぎ、落ち込むことになるのです。「切り出された穴、掘り出された穴」を思う時、どのように主は私たちを助け、導き、支えて下さったかを思い起こすことができます。家族同士では甘えが先立って、両親や兄弟姉妹の愛を見失ってしまう事が多々あります。主にあって祈られ、支えられた日々を思い起こすことの中で、信仰は感謝となり、健全な恵みに回復することになります。主イエス様が一切の罪と過ちの咎を十字架で背負い、命を与えて下さった恵みに立ち返る時に勝利に輝くのです。「思い煩うな、明日のことは明日自らが思い悩む」(:34)という言葉は決して神様がおいでだからどうにでもなるということではないのです。今日の今、試練に打ち勝たせて下さるからこそ、明日どのような試練があっても「思い煩う」ことはないという確信であり、だからこそ「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(:33)という、神第一の道を歩むことになるのです。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」という言葉が力となり命となって、いつでも勝ち得て余りある勝利者になるのです。
使徒パウロは「 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」(フィリピ4:6−9)と言うのです。一日一日、真心こめてイエス様の御心を歩んでいこうではありませんか。
イエスは言われた。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」(マルコ12:29−31)

 

 


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