2011年 12月18日 礼拝メッセージ 
「平和を告げるクリスマス前夜」ルカによる福音書2章8-20節
 クリスマスのそのよき訪れを知らせる不思議な出来事が起こりました。クリスマスの夜、ベツレヘムの近くの野原で野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちがいました。焚火にあたりながら毎日のなりわいを巡って話をしていました。突然、澄み渡った夜空に不思議な光が広がり、驚き恐れたのでした。その時、天空から清らかな天使の声が聞こえてきたのでした。「恐れることはない、すべての民に与えられる喜びを告げる。今日、ダビデの町に救い主がお生まれになった。この方こそ主キリストです。あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている幼子を見るであろう。これがそのしるしである。」(ルカ2:10‐12)と言うと、たちまち天の軍勢が天空に響くような声で歌うのが迫って来たのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)再び、野原に静けさが戻り、羊飼いたちはダビデの町であるベツレヘムに急いで行き、飼い葉桶に寝かせてある幼子を訪ね当てたのでした。見聞きしたことが天使の言葉通りであったので、神様を賛美して帰って行ったのです。母マリヤは、かつて、天使が来て告げたことと符合するのを思い巡らしていたのでした。(ルカ1:26-45)
 イエス様の御降誕に導かれた東方の博士たちは、おそらくはユダヤの古文書(聖書の諸書の伝承)から偶然、天体の研究を通してベツレヘムに導かれて行ったのでした。彼らは異邦人で聖書には関係のない人々でしたが不思議な導きでイエス様にお会いできたのでした。野にある羊飼い達は無学な人々でした。ユダヤでは無学な人々は字が読めず、律法を十分知ることが出来ず、知らなければ守れず、その人たちは軽蔑すべき罪人であると言われていました。ユダヤ的な伝統からいえば東の博士たちも、羊飼いたちも罪深い人たちであり、神様の御心から遠い人たちであることになります。しかし、クリスマスの出来事は、伝統的なユダヤ人には神様から遠いと考えられていた人々に伝えられていたのです。その後、神の民と考え、自負していた人々は、イエス様がキリストであるということに反対し、攻撃し、終(しま)いには十字架につけるという結末を迎えることになるのです。
 ここにクリスマスの第一のメッセージがあります。神様を知っている。神様を信じている。神様の律法を知り、行っていると確信する人々にはキリストであるイエス様が知らされなかったのです。神様とは遠い、関係ない、罪深いと思われたような人々にクリスマスは知らされたのです。やがてイエス様は伝統的考えのユダヤ人(ファリサイ人)に「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)と語られています。使徒パウロは「正しい者はいない。一人もいない。」(ロマ3:10)「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ロマ3:23)と言います。言換えれば「罪がない」と言う偽善的な人々には「神様のことは分からない」と言うのです。野にあって貧しく、希望のない、差別と偏見の中にある孤独な人々、羊飼いたちにこそ神様が最も近くにいることをクリスマスの訪れは示しているのです。野原の異象の中で神のメッセージを“直接”告げられたのです。伝統と伝承に縛られ、伝えられている神の御心を見失い、自己満足に陥っている伝統的なユダヤ人の人々には全く伝えられなかったのです。
 この事は今日の世界の教会が辿っている現実への警告でもあるのです。イエス様の福音は歴史の中でその後、編纂されて聖書が形成されて、確かに“誤りなき神の唯一の言葉”として受け継げられてきました。そして聖書は信仰と教会の再生を福音の恵みの中に繰り返してきました。しかし、19、20世紀と出来あがった教会には命の躍動が失われ、形成されたヨーロッパのキリスト教文化の白欧優越主義は、それがキリスト教であるかのように、宣教がその白欧優越文化の宣教に陥ってしまいました。聖書の出来事は昔のことであって、今は、違うと言うのです。直接、神様が人の心や生活の中に働きかけ、御心を示すことはないということになってしまっているのです。聖書はキリストの預言と歴史の事実を記録するものです。歴史の事実を証言する信仰の原点であるのです。人は様々な経験の中で神様の御心にふれ、確かめる道を求める時、聖書、即ち、イエス様がお生まれになった福音の出来事にたどりつくのです。或る人は、東の博士のように聖書の文言にふれて導かれることもあります。言換えれば聖霊こそは見えない神様の働きとして人の心に働き、目覚めさせ、その霊によって福音に出会い。福音に生きることが出来るのです。
使徒パウロはこのように言っています。「 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、“神からの霊”を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」(Ⅰコリント2:10-13)聖書が過去の単なる記録にとどまり、伝承と権威をもって聖霊のダイナミックな命の働きをほとんど見失っていることが、現在のキリスト教会であると言えます。クリスマスの予告の出来事は真実に生きたキリストの福音を受け継ぐメッセージとしてあるのです。如何なる時にも、生ける主は共にいて働いて下さるのです。そこにクリスマスの豊かな福音の恵みの命があることを味わいましょう。
 第二に、羊飼いに語られた喜びの賛歌のメッセージです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)声高らかに平和の訪れ、喜びの訪れが告げられています。このクリスマスの賛歌は多くの賛美歌となり、オラトリオともなって歌い語り続けられてきました。しかし、この賛美は「御心にかなう人」だけに語られたのでしょうか。「御心にかなわない」人には関係のない平和であり、喜びであるのでしょうか。このような隔てのメッセージはクリスマスの平和であるとは言いにくいのです。この「御心にかなう人」いう聖書の言葉はεύδόκιας(eudokias,イウドキアス)といってその意味は「喜び、意志、決断、願い、善意」などです。むしろ、神様が、善意と好意をもって受け止めて下さる人に平和があるようにということなのです。神様が自らの平和と共に、その平和に預かるべく自分の心を開こうと決断する可能性をも賜物として与えるという意味であり、私達に御心にかなう資格があるかないかでなく、神様の御心のうちで資格を問題にするのでなく、御心にかなう者にして下さるということであり、御心にかなわないものであるがゆえに御心にかなう者として平和を与えようという祝福の言葉であるのです。神様の善意、福音による御心、即ち、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ロマ4:17)であるのです。神様の善意、その意志を全ての造られた人々にクリスマスの恵み、平和と喜びは伝えられているのです。人の目には救いえないような人にも。もう絶望的な混乱と廃墟の中でも人は希望に生きる事ができるという約束を神様はキリストによって示し、道を備えて下さるのがクリスマスの喜びであるのです。ハレルヤ!!
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」    (ロマ5:1-8)


 


 ページのトップへ    2011年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ