2011年 12月25日 礼拝メッセージ 
「クリスマスの喜びと平和」 
マタイによる福音書1章18-25節
 クリスマスを心よりお祝いいたします。
 クリスマスとはキリストとミサを意味します。ミサは教会の聖餐式を意味しています。キリストが“キリストを記念”してパンと杯(葡萄酒)を飲みなさいと言われたことを受け継いでいます。繰り返し「パン」と「杯」を頂くたびに「キリストを信じ」受け入れて、新たにキリストを心に迎え入れることを確かめるのです。“記念”は聖書の言葉でアナムネーシス(άνάμνησις-anamunesis)と言って「記憶」「記念」「思い出す」と云う意味であり、過去の出来事の想起だけでなく、現在、今、「記憶」が生き生きと生活の中で経験するような「生きた思い出」という意味であるのです。
 ですから、クリスマスは、単なる過去の出来事ではなく、いま、生きている私達、一人一人がクリスマスの出来事を現実のこととして経験することなのです。野の羊飼いたちや、東の国の博士たちの喜びを共にする感動の時であるのです。だからこそクリスマスが喜びであり、感謝の時であるのです。
 クリスマスは、神が、人としてこの世にお生まれになった時です。聖書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。…言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。…いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:1-18)と言っています。“神を見た者はいない”とはっきり言っています。見たことがないのに神さまの存在を確かなものにするのは、信じる以外にないと言えるのです。イエス様は「私を見た者は、父(神様)を見たのだ。」(ヨハネ14:9)と言われています。教会では三浦綾子読書会を行っています。12月は「光あるうちに」という作品を読みました。三浦綾子さんは、この中でご自分の体験として、クリスチャンのとの交流が始まって10年、教会で求道し初めて3年もかかって信仰をもったと言われています。なかなか解らなかったのはイエス様が、神であることにあったと言っておられます。「日本の精神風土では、神は曖昧である。人が死んだら神に祀りあげたり、狐までも神に祀る。そして、『あの人は生き神様だ』などという言葉を平気で使う。」と云っています。確かに、歌手が「お客様は神様です」などと軽々しくいうのです。阪神タイガースに勝ち目が出ると商店街に祠(ほこら)をつくって拝む、何とも滑稽であるが、これが日本の風土でなのです。また、祟りを恐れたり、験(げん)や縁起を担いだりするのです。このような迷いが最も理性と文化、高度な科学が進展している日本の風土に根付いているのが現実といえます。これは善悪の問題ではなく、真実の問題であるのです。三浦さんはむしろ知的な人が無神論であるというように極めてクールな目で見ていたようです。
 しかし、イエス様のその生涯と影響の実録である聖書を読んでいくうちに、イエス様が人々を愛する姿が、克明に浮かび上がり、超自然的な奇跡の数々もその不思議な出来事を越えて、すべてが人々を愛するメッセージとして迫る姿に出会うことになるのです。そして如何なる犠牲もいとわず、自分の存在を投げ出して人を救う犠牲の道を歩まれる姿に感動するのです。そして、「わたしに父(神)を見せて下さい」という弟子の問いに「わたしを見た者は、父(神)を見たものである。」と答えられるのです。ユダヤでは、決して神を見る者にはなりえないと考えられていたのです。自分を神とすることは死に値するのでした。やがて、イエス様は神の愛を教え、その愛を実践し、神の愛を示されているのです。イエス様は、その為に十字架に架けられることになり、呪う者を赦し、嘲る者を憐れみ、鞭打つものをいとおしみながら敵対する彼らに「彼らのなすところ知らざれば、彼らを赦し給え」と祈る姿に、人々は[この人は神である]と叫んだのでした。(ルカ23:)戦前の学校教育に携わった三浦さんは、当時を思い「私は天皇である」と誰かが言った時、日本ではどうなったであろうかと回想するのです。「おそらく、不敬罪で死刑になったのではないか」と言っています。
イエス様は真の神であり、真実の神が「愛」であることを、その生涯を通して現わされたのでした。死んで甦ることを語られていた通り、事実、3日目に甦られたのでした。弟子たちは、その後の伝道の中で多くの証言を記録に残しています。使徒パウロは「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」(Ⅰコリント15:14-15)と記しました。キリストの福音は世界に広まり人々の希望となったのです。
新約聖書はキリストの系図から始まります。初めての人が戸惑うことになります。しかし、これは旧約聖書のダビデの末裔から救い主メシア(キリスト)が生まれるという預言の成就であることを表しているのです。聖書は「このマリヤからメシア(キリスト)と呼ばれるイエスがお生まれになった」と記しています。そしてキリストの降誕の出来事を記録しているのです。ヨセフはマリヤと婚約していました。ユダヤのしきたりでは婚約した両人は夫婦関係のないまま結婚式まで共に生活をするのが仕(し)来(きた)りであったというのです。マリヤは一緒になるまえに「聖霊」によって身ごもるのでした。(マタイ1:18)夫ヨセフは正しい人でこの現実の前で、思いめぐらし、結婚前に身籠ることは、正に姦淫になると思い、密かに縁を切ろうと思うのです。そうしないと公に、この現実を申し出るとマリヤは極刑になることになるのです。密かに離縁することはヨセフの思いやりもあったと言われています。ヨセフは夢の中で天使の声を聞くのです。「恐れず、妻マリヤを迎え入れなさい。マリヤの胎(たい)の子は聖霊によって宿ったのです。」(1:20)と云うのです。それだけではなく「その子をイエスと名付けなさい」というのです。イエスは“主は救い”の意味であって、イザヤ書の7章14節が引照され「その名は、インマヌエルと呼ばれる」と記しているのです。このインマヌエルこそは“主は私達と共にいます”という意味であるのです。“主が共にいます”、このことこそは“主の救いがある”ことにほかならないのです。そして降誕の出来事の記録は“その子をイエスと名付けた”で終わります。それがイエス様の生涯の始まりであり、マタイによる福音書は「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイ28:20)で終わります。これは“よき訪れ”「福音」が、即ち「神は世の終わりまで共にいる」ことほかならないのです。人は罪に迷い、自己の軋轢が混乱と破壊、対立と分裂、憎しみと抗争を産み、正に、神のない世界であるのです。現実の悲惨な歴史にあって、見えない真実の神が見えるようになり、罪の世界は神を排除し、罪を罪とも思わず、御子イエス・キリストを十字架につけ、神様を殺害することに気付くときに、初めて神の赦しの尊さ、偉大さ、無限さを悟る道が示されたのでした。「神は見えない」と言う人に「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Ⅰヨハネ4:12)神の愛をもって愛しあうところに神がおられる。そのことをイエス様は表して下さったのです。「神は、独り子(キリスト)を世にお遣わしになりました。その方(キリスト)によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(4:9)神が共におられるところに「神の国」があります。神の愛は、信頼によって生まれます。その愛は信頼によって「平和」を生むのです。真実の平和のあるところに、かぎりなき「喜び」が生まれるのです。
クリスマス、イエスキリストの降誕は真実、人にとっては神様の栄光の時であり、人の喜びの時であるのです。今現在、置かれているところでクリスマスの心が生きる時、平和の可能性と希望の喜びが生まれるのです。キリストを信じる時に喜びが生まれ、賛美が湧き上がり感謝の祈りが聞こえるのです。主に栄光あれ、グロリヤ、インエクシェルシスデオ、主に栄光あれ!!

 


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