2012年 1月1日 元旦礼拝メッセージ 

「主にあって望みをおく新しい年」 
イザヤ書40章27-31節
 新年明けましておめでとうございます。神様の栄光があるように。繰り返し、新年のあいさつを「おめでとう」繰り返しながら、一休和尚のように「元旦や冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし。」と言う風刺の言葉を思うのでしたが、よく考えるとそうではなく、「今日まで守られて生かされてきた。また、新しい年を迎えることが出来てなんと感謝ではないか。」目出度いと言う意味は、“素晴らしい”ことであり、“麗しい”こととなるのです。当て字ではあるのですが「芽出度い」というのは、種が芽を出し、これから成長する希望を現わしてもいることになります。
 「生きている」「生かされている」と言うことの感動を、神様にあって心から喜ぶことが出来るのは素晴らしいことであるのです。改めて新年を迎えることが出来た恵みを感謝し、生かされている意味を心に深く思い、神様の恵みを感謝し、褒め称えようではありませんか。主に栄光あれ。ウエストミンスター大教理問答書の最初に「問い、人生の目的は人間のおもな、最高の目的は、何であるか。答、 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし(1)、永遠に神を全く喜ぶことである(2)。」無目的なところには喜びはないのです。一休和尚は、人生の区切りである元旦を“冥土の旅”を終わりとする旅の一里塚、一区切りであり“目出度くもない”し”目出度いことがよくわからない”と言うのです。「冥」とは“くらい”“闇”であって“頑冥”ということは{道理に暗い}と言う意味であり、解らないと言うことになります。言換えれば、行き着くところが「解らない」、「目的が解らない」ことになるのです。目的が、分からないと言うことは何をしていいのか分らないことになります。単なに無目的に生きることは空しいと言えます。聖書の「目的を外れる」ことはハマルテアーと言ってこれは「罪」を言い表しているのです。神様は「人を創造する目的を神の栄光を表す。永遠に神を全く喜ぶ」ことにあると言う時、神の栄光を生きる、神の喜び、神の素晴らしさを表すことであって、それが目的であるのです。言換えれば、その目的を生きるのはマみの御心に生きることであり、神の御心を表すことを目的にすることにあるのです。その目的が失われていることこそは「罪悪」であると言うのです。罪悪は道理を踏み外し、約束を見失い、自己中心の迷妄の中に混乱と対立、抗争と破壊を生みだすことになるのです。人間は、本来的に「目的」を持たないでい人時たり友生活を営むことは出来ないものです。この新しい年を迎えるにあたりみ言葉に立ってこの一年を出発しようではありませんか。
 2012年のお言葉として「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。」(コリントⅠ16:13)が与えられています。第一に、「目をさましていなさい」と言う言葉です。目的は未来に属することです。未来に望みを置くときには、現状を理解することが不可欠であるのです。「目を覚ませ」と言うグレゴレイテ(γρῃγορϵῖτϵ、gregoreite)ことは[油断するな]と言う意味であって、ここではコリント教会の事情を背景に語られているところから、教会の誤った発展の危険性、サタンの執拗な誘惑、様々現状をよく理解することを促しているのです。油断のなさの勧告は、人間はイエス様が徹底して御心に生きる献身を忘れがちであり、無価値なものに執着するという危険にさらされていることを指し示す注意の言葉であるのです。
今、私に何が必要なのか。主の前に問うことから始める必要がります。だから「信仰に基づいてしっかり立つ」ことを勧めているのです。「信仰に基づく」と言うことはイエス・キリストの歩みを見ること、その言葉による自己点検であるのです。神の栄光、神に喜ばれることが何であるのかに尽きます。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフエソ5:10)。この事によって自分の現状が理解でき、課題をしっかり把握し、目的を明白に出来るのです。イエス様を信じるときに「(主は)あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(フィリピ2:13口語)下さるのです。キリストを信じる信仰は目的、ビジョンのある人になる約束がここにあるのです。
 第二に、信仰は、目的を信じることであって、目的と信仰は一つであり、目的は未来に属することであるのですが、信仰によって目的は現在のことになるのです。「得たりと信ぜよ、さらば得べし」(マルコ11:24)この主にある約束が、未来のお約束の現実の喜びとして信仰の喜びとなるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)。目的は目標の設定によって計画と努力を生み出すのです。「信仰に基づく」とは正に主イエスへの信仰と御心に立つことを意味しています。信仰の裏付けは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)と言うみ言葉にあるのです。信仰の確信は、自信となり、確信となる時、「雄々しく、男らしく」大胆に、平然とどのような試練をも克服する力と魂胆に生きることを約束しているのです。この約束が信仰にある命令になるのです。
第三に、「何事も愛をもって行いなさい」(コリントⅠ16:14)パウロは繰り返し「愛に生きる。愛に実践」を勧めるのです。神様の愛に生きる。神様の愛で築く、神様の愛を実践することこそが祝福の鍵であるのです。新しい年にこの原則に立って目的を新たにし、具体的に目標を立て、信仰を持って大胆に年を始めようではありませんか。そいて最も肝心なことは「信仰に基づく」と言うことです。思考の基本はみ言葉「聖書」と「祈り」であるのです。その祈りと生活は「キリストの教会」を中心に養われ、祈りあううちに、み言葉に養われて実現することをしっかりと忘れてはならないのです。「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。…むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じていて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:13-16)
 だから、今もうひ一度、イザヤ書40章の言葉に注目するべきです。日々に歩みには試練も失望もあります。「わたしの道は主に隠されている。忘れられていると」(:27)このように嘆く時にも主の言葉「主はとこしえにいます神、主は、すべてのものの造り主、倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」しかしながら「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(:31)
 この年の目的をはっきり立て、目標を見定めて進もうではないか、信仰生活の目標、祈りの生活、霊的成長、家庭生活、仕事の目標、主に奉仕する喜びの目標、信仰を基として具体的に進めようではないか。
 

「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。」(コリントⅠ16:13,14)

 


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