2012年 1月8日 新年礼拝メッセージ 

「光り輝く祝福を祈る」
イザヤ書60章1―5節
 新しい一年が明けた。新しい仕事が始まった。停滞する日本の政治、欧州の経済不安、停滞と衰退の兆しを見せるアメリカ、打ち続く世界的な自然災害の連鎖など閉塞感と混乱の情勢にあります。日常的に就職難、経済不安、格差が覆っていると言われています。しかし、どのようになっても、その折々に人はその戦いを克復して行かなければなりません。どのような時でも“み言葉”に立つ時、確信と勇気、打開の道が備えられているのです。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントT10:13)いま新たに神の約束、聖書の“神の言葉”に立って進んで行こうではありませんか。
 この年の初めに与えられている“み言葉”は「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60:1)最初に「起きよ」という句で始まり、「神の栄光の光が輝く」が現状の明るさを指し示して、「見よ」と言う注意が示されて深刻な現実が提示されています。「闇は地覆い、暗黒が国々を包んでいる」と指摘している。言葉順序としては“見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる”“あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く”“起きよ、光を放て”となるのが自然である。現実への注意をおこす“見よ”と言う言葉によって暗闇が世を暗黒としている。言換えれば絶望と混乱、不安と挫折の現実を理解し、自覚し、悩み、苦しみ、惑うとしても、その根本的な現状は闇を取り除かれることによって、新しい理解と自覚が生まれてくる。主なる神が、その臨在の栄光を輝かせて下さる時、現実のあり様が、闇の時と違って、光のもとで照らし出され、全く違う現実を見ることになる。その光に照らされて、初めて“起きよ!!”と言う言葉に目覚めさせられることになる。主の光に照らされて、内なる自己の変革が経験される。主の光に、「主が共におられる」自覚が生まれ、主が導き、主が支え、主が励まし、強めて下さる確信が生まれのです。
 そこで、先ず第一に「あなたを照らす光は昇り、主の栄光があなたの上に輝く」“主の栄光の光”とは何を表しているのかというと、神様の臨在であり、主、そのお方が、共におられる経験であるのです。ヨハネによる福音書1章には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。“命は人間を照らす光”であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:1−5)と記しています。神そのお方の命、それこそ光であり、人を生かす命であるのです。闇とは、神のない世界を表しているのです。神様を否定し、拒絶するところが闇となるのです。言換えれば、見える現実の状態ではなく、現実に内在し、すべてをつかさどる霊の実在を表しているのです。不合理で、無理解な様々な人生の経験の中で、“命の光”真実の創造主なる父なる神に出会い、信じ受け入れる時、主の栄光の光は自分の内をてらし、心の闇を全く変えて下さるのです。主の命の光が、輝く時、神様にある喜びが、いのちとなり、聖霊に生かされて神の命に生きる者と変えられるのです。使徒パウロはこの命、光の恵みを「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。…これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:31,37)「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:12,13)という言葉で表しています。
 第二に、「光を放て」ということは、「主の照らされる光」こそは、聖霊の光であると言えます。光を放つことは闇を克服することにほかなりません。イザヤ書60章の言葉は終末の福音への確かなる主の約束の預言の言葉であるのです。それは主イエス・キリストによって現わされた「福音」、即ち、御子イエスの受難を通して示された神様の愛と救いが新しい創造の約束であり、完成であることです。「この光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1:9)“この光に照らされる”とき“その光をのべ伝える”人となるのです。その光こそ聖霊の光であり、その聖霊の光は、命、即ち、「力」となって福音に生き、福音を伝える、神の恵みを伝える、証しする人に変えられるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使1:8)。
 第三に、年初には、今年一年の「み言葉」としてコリント第一の手紙16章13,14節を挙げました。「目を覚ましていなさい。…。」でありました。“油断することなく”注意して現状を認識し、推移をも守り、現状を把握することでありました。それはイザヤ書60章2節の「見よ…」と言う言葉に続く闇の現状の認識理解への注目を促す言葉であったのです。単なる理解でなく、「主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる」この約束があるからこそ、「起きよ」、“立ち上がれ”“行動せよ”と言われるのです。福音が宣べ伝えられる前に、福音が教会の中で生かされなくてはならないということです。“光を放つ”ということは、「光に生きる」ことによって「光を放つ」ことです。光が、命となって人を生かし、神様の恵みに生かされる、聖霊に満たされ、神の愛に生きることによって「命の光」が、高輝に照らされることになるのです。
 「光を放つ」ことは「神の愛の光」に生きることにほかなりません。“聖霊に満たされる”ことは、“神の愛に満たされる”ことであるのです。クリスチャンはキリストの愛に生きることにほかなりません。「光を放つ」ことは、内にあるキリストの命、光、即ち、キリストによって現わされた神の愛に生きていることなのです。
 最後に、この一年、新しいキャンパスにどのようなキリストの愛に生きる絵を描くのかが課題であるのです。み言葉に親しみ、祈り、聖霊に満たされて「主の光」をもって人々が心を寄せ、引き付けられ、その隠された光の輝きに心を引き付けられることを。

 


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