2012年 1月15日 礼拝メッセージ 

「試練を克服する道」
マタイによる福音書4種1―11節

年が明け、新しい年度の活動が始まろうとしています。摂理と言う言葉がありますが、これは神様の「み心、み旨、お導き」と言う意味でもあります。聖書の言葉ギリシャ語ではオイコノミヤ(οίκονομία-oikonomia)といいます。これは本来「家を建てる」(οίκοδομέω-oikodomeo)と言う言葉から出来ているのです。人生は「一つの家を建てる」ようなものであるという意図が示されていると言えます。神さまを信じ、認識して生きることは、神様の御心に従って生きる、即ち、家を建てあげることになるのです。今朝、与えられている聖書の言葉はまたによう福音書4章の「イエス様の受けられた誘惑」と言う有名なテキストです。これはイエス様が公生涯(福音をのべ伝える使命を始められる)にあたり、「神の子」として父なる神様の証明があった出来ごとの経緯を載せています。3章の終りにイエス様が受洗された後、聖霊が鳩のように下る現象を見られて、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:17)と記録されています。そして4章で「誘惑の試練」の記事が掲載されているのです。この出来事はおそらくイエス様が経験を回想して弟子たちに語られた出来事であったということは、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ各福音書)に記載されていることでも明です。受洗の出来事によってイエス様は「神の子」であることを指し示し、4章の「誘惑の試練」を通して神様であることは、神様の御心に生きる、存在する根本的なあり方を指し示して、そのあり方の確かさを宣言していることになるのです。それだけでなく、この出来事を通してイエス様を信じる人々の生き方の基本的なあり方、神様と共に生きる祝福への道を教えているのです。神様に喜ばれる(エフェソ5:10)人生を建てる根本的な言葉が示されています。
イエス様は、悪魔の誘惑を受けられる。悪魔はディアボロス(διάβολος-diabolos)と言って中傷誹謗し、人を責め立て、人を「試み」「試練」に陥(おとしい)れるようとし、惑わす《誘惑する》者であると言う意味があります。しかし、ここでは「霊に導かれて」とあるのは神様に導かれて行っていることを示しています。神の御心で悪魔の誘惑へいざなっていると矛盾を感じますが、イエス様が今まさに神の御子としての「この世」に福音を伝えるために使わされようとされている現実は、神様を拒み、神を恐れず、神を知ろうともしない「闇の世」であるのです。言換えれば、神様を否定し、神様の御心を見失っている世情であるのです。その究極の出来事こそは、イエス様を十字架につける出来事が象徴されているのです。だからこそ、イエス様は神様の導きの中で祈られるのです。四十日、四十夜断食の祈りをもってその試みに対決されるのでした。神様を否定する闇の世に、神が人になられる、即ち、人として闇に生きる罪深い現実の形となって、その苦悩を克服するプロローグが、四十日の断食でありました。食は人間の生を支え、あらゆる生の意欲の源であり、そのことが欲望の源であって、神様のない生は闇となり、罪悪である現実を自覚させ、その克服によって神様の不可欠な存在を認識できるのが断食であったのです。聖書には断食の習慣については語っていませんが、モーセがシナイで十戒を受ける間、人々が偶像礼拝に陥った深い罪を悔いて、四十日、四十夜断食をしました。(申9:18)また、サムエルはイスラエルの罪にために断食しているのです。(Ⅰサム7:6)ダビデも子供の病のために断食をしているのです。(Ⅱサム12;16)聖書には多くに事例があるのです。食を断って、自己存在を神様に全存在を集中して心を向けて祈るのです。断食は、神様とだけ対峙する経験であると言えるのです。イエス様は、神の子として断食によって、生の極限である空腹の中にあって悪魔の見え透いた神の子への挑戦を受けられたのです。
「誘惑する者」サタンは、イエス様に「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4:3)と言うのです。「神の子なら」と言うのは「神の子であるのだから」「石にパンになれと命じれば成るのではないか」と言うのです。石が、パンになるはずがない、不可能である、しかし、あえてこの無代な押しつけによって試みているのです。
この悪魔との対決は、第一の教えが示されているのです。イエスは直ちに言われています。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(4:4)これは誰でも知っている有名な言葉ですが、実は、イエス様は旧約聖書の申命記8章の3節の言葉を語られているのです。この言葉は、パンがなくても神様の言葉だけがあればいいと言うのではありません。パンも必要です。しかし、パンを食べる生きることだけでは人は生きていることにならないと言うのです。パンだけ、体の養いだけでなく、人には霊魂があり、心がある。人としてなくてならない心の養いこそが、人をして真実の人となることが出来るのです。それは「活ける神の言葉」に生きるときに人は、人として生きることになると言うのです。言換えれば、神様の言葉によって生きる時、人は、現実のパンの生は備えられていると確信することにあるのです。
申命記の8章には「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。“人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。”この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」(:2-5)と記しているのです。出エジプトの40年にわたる数々の試練の中で不可能な現実の中で、生かし、着せ、飲ませ、養われた出来事を忘れてはならないと言うことなのです。神様の言葉に生きることを第一に、生活の基本にして生きることの大切さを教えているのです。
 第二に、誘惑する者、悪魔は、み言葉「聖書」をもって挑戦するのです。イエス様を都の神殿の屋根の端に連れて行き、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いある。」(4:6)と言うのです。ここでは聖書を引用して悪魔は、挑戦するのです。奇跡や不思議を行うことが出来るのかどうか。この問いは、神様の全能を試みる試練であるのです。神様であるなら何でもできるのではないか。神様は、決して御力を見世物として示しているのでないことをイエス様は、はっきりと示されます。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と書いてある。」(申6:16)と応答されるのです。神様を試すことは赦されざる罪悪であることを示しておられるのです。神の全能、奇跡や、不思議は、神様の御旨の中で行われることであってそれは神様の「愛」恵みを愛する者の救いと解決のために表されることを忘れてはならないのです。その愛が業となって経験される時、そこには神様の愛を経験する喜びと感謝、神様への賛美が生まれることになるのです。神様を信じる人々の礼拝が生まれるのです。イエス様は、真実の父なる神様の御力の御心に生きることを示しておられるのです。
第三に、悪魔は最後の試みをもちかけます。「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。『退け、サタン。“〈あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ〉”書いてある。』」(4:8-10)最後に、誘惑する、悪魔は自分を礼拝する、神様を拒み、否定し、裏切り、悪魔に仕えるならば、この世の権力、支配の権限を与えると言うのです。イエス様は、直ちに申命記6章12節を引き合い「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と断言されるのでした。人間にとって最高の魅力、この世の支配権をちらつかせて究極的な誘惑を、神様の御心に従う根本的な幸せの解決のあり方を示されのでした。
今年の標語であるコリント第一16章13節には「信仰に基ずいてしっかり立ちなさい。」とあります。神様を信じる信仰の原点こそが、イエス様の誘惑への回答がその基本となっていることを忘れてはなりません。いつも、どこでも、一時なりともこの原則に生きようではありませんか。繰り返し、シェマー(主の言葉を聴け)を唱じながら勝利の証の日々を歩もうではありませんか。

イエスは言われた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37-39)




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