2012年 1月22日 礼拝メッセージ 

「躍動する信仰生活の喜び」

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
(ネヘミヤ記8章1−12節)
一月と言うのに牧師館の前に植えられた「山茶花(さざんか)の花」が綺麗に咲いている。赤く、そしてあでやかに多くの花が咲く。どういう訳か、東側の花は大きく、赤く、多いのである。一本はなれた西寄りの木には花はあり、多くのつぼみも開花を待っている。しかし、萎れて、今にも落ちそうである。つぼみは淋しげに精気がない。私は水がないのかなと水をやることにこころがけもした。あまりにもハッキリしている優劣に苛立ちさえ覚え、又愛(いと)おしくさえなり、“元気よく咲いてくれ”と祈らんばかりの複雑な気持であった。ある日、植えてくれた垣花兄に「どうして西側の山茶花の花は枯れたようになるのですか」と尋ねた。「それはですね日が当らないからですよ」と云う答であった。実は、一昨年、徳島に行った時、“道の駅”で百日紅(さるすべり)の小さな植木を売っていたので買って帰った。尼崎の街にも街路樹で植えてあり夏で暑いのに3ヶ月ぐらい花を咲かせているので心を引き付けられたのです。これを家の北向きの西側に植えておいたら全く咲かないのです。日陰であったのです。日頃、植木に無頓着な私の軽薄さであったのです。この事からイエス様を信じる信仰生活の真髄を教えられたのです。
 イエス様を信じているクリスチャンでありながらいつも喜びと感謝にあふれ、主に仕えることを楽しみ、人々に福音を伝え感謝する人がいます。一方では、イエス様を信じていながら特に喜びも感謝もない。出てくる言葉は嘆きであっては、花のない木と花のある木との違いを見ることになります。花が咲き、実を実らせる木は喜びと歓声を生み出すことになります。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)聖書は重ねて「喜べ」と言うのです。「常に」「いつも喜んでいなさい」(Tテサ5:16)と言います。「常に」「いつも」ということは「絶えず」「どんな時にでも」「例外なく」という意味が続くことになります。何時も繰り返すことですが、このような奨励や命令はどのような人間にも「不可能」だと言えます。しかし、この命令形は直接法で読むと意味が納得できるのです。命令の言葉を直接法で読むと「約束」になるのです。「喜べるようにしてあげる」となります。「常に喜べるようにしてあげる」という約束があるから「喜べないような時にも喜べる人」になれるというのです。これはキリスト教信仰の極意であるのです。
旧約聖書のネヘミヤ記8章10節には「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」とあります。この記録のあるネヘミヤ記は、イスラエルがバビロンに捕囚されて後、ペルシャのクロス王が台頭してバビロンを征服し、クロス王の寛容令に従ってイスラエルは解放され、帰国してからも様々な困難の中で、祭司エズラやネヘミヤは神殿と城壁の再興に取り掛かるのです。ネヘミヤ記では城壁を完成し、律法の書に記されている仮庵の祭りを執り行い、民を集めて律法の書を朗読させるのです。民はバビロン捕囚の屈辱、帰還してからも様々な妨害や試練に見舞われたこの事を回想し、神殿と城壁が回復されて、律法の約束と主の守りを痛感して涙を流すのです。その時、ネヘミヤとエズラは「悲しんではならない。主を喜び、祝うことこそは、あなたたちの力の源である。」と言うのです。そこには約束の神の言葉があったのです。神殿を、城壁を再建出来た。それはこの神の言葉、約束の律法の言葉が基礎であり、今日の完成の礼拝はその御言葉の恵みによることであり、この約束をもっていることこそが神の民の力であると指摘するのです。だからこそ、真実にして創造主なる、唯一の神の恵みに支えられているのだから、「喜び」「喜べ」、涙で祝うのでなく、喜び、笑顔で、歓声をもって主の恵みの勝利を歌い、祝えと言うのです。過ぎた試練が、この喜びが信仰によって前倒しとなって「力の源泉」、希望の命となると約束するのです。
ヨハネによる福音書15章5節、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」とイエス様の言葉があります。7、8節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」と言われているのです。実を結ぶことはキリストにつながる、キリストの言葉に繋がるということであるのです。そして主イエス・キリストが甦り、地を去られる時、真理の霊(ヨハネ16:13)は弁護者、助け主としてあなた方にすべてのことを教えて下さるのです。(ヨハネ14:25)だから主イエスは言われるのです「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)。み言葉は命であり、命は人を照らす光であるのです。(ヨハネ1:1−5)み言葉は、出来事を通して示され、聖霊によって「言葉」として命となるのです。
 使徒パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)と言っています。聞くことは受け入れることであり、聞いたことを信じる時、確信となり、生きる命となります。信じる人の霊性が目覚めるのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。)(Tペテロ1:8,9)
第一に、キリストを信じる時「喜びに満ち溢れる」ことは聖霊の光に基づく素晴らしい体験であるのです。そこで使徒パウロは「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)と言います。そして「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ロマ8:6)と言うのです。キリストにある救いは、聖霊による命の光に輝くところに「喜び」として実を結ぶことが出来るのです。
第二に、使徒言行録では「聖霊に満たされる」信仰の経験が鮮やかに記されています。ペテロは堂々とユダヤの指導者たちや群衆の前で「聖霊に満たされて」語るのです。(使徒4:8)ステパノは「聖霊に満たされて」迫害の試練にありながら「活けるキリストのみ姿を仰ぎつつ」群衆のなす罪の赦しをイエス様に願うのです。(使徒7:55)使徒たちは「聖霊に満たされている」聖徒たちを群れの奉仕をする人に選んでいるのです。(使徒6:3)聖霊は命の光の根源であって信仰はこの光に照らされてこそ“躍動する喜び”を結ばせることになるのです。迫害の中にありながら“聖霊に満たされた”聖徒たちのよって福音は大きく、広く広がっていくのです。聖霊に満たされ続けることこそが、喜びの実を結ぶのです。その喜びとは日々の生活の中で活ける主が共にいて、リアルに祝福を経験することであるのです。そして最大の喜びは人々がキリストに導かれ、救いを体験することにあります。永遠の命を共にし、神の国を生きる証をすることです。それは死から甦り、永遠の命の喜びを喜ぶことなのです。福音を大胆に伝え、実を結び、喜びを分かち合おうではありませんか。
第三に、聖霊の光に命を受けて、「聖霊の実」を豊かに結ばねばなりません。聖霊に満たされ、聖霊の光、命に生かされる時、外なる実に対して内なる実、人の内から出る聖霊の輝きとしての実であるのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22,23)そして使徒パウロの書簡を通して基礎的な信仰の恵み、聖霊の実は「謙遜」と「感謝」であることは明らかです。(フィリピ2:6)(コロサイ3:17、一テサロニケ5:16)。内なる実と共に外なる実が豊かに実り、生けるキリストの教会が豊かに実を結ぶぶどうの木として成長するのです。
聖霊の命の光に照らされ続けようではありませんか。そこに躍動する信仰の喜びが日々新たに実を結ぶのです。“主を喜ぶこと”こそ何にもまさって大切なことであるのです。

 

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