2012年 1月29日 礼拝メッセージ 

「神の恵みと信仰の力」
マルコによる福音書2章1―12節

毎年、世相を表す字が選ばれ、それを京都の清水寺の管主が描くニュースが流れます。昨年は「絆」でありました。昨年は東日本大震災・津波の災害の中で、全日本の国民が受難された方々のことを思い痛み、思いを寄せて多くの人が応援してきました。国際的にも色々な国の事情

超えて、全世界から応援と見舞いが寄せられています。困難な時にこそ「人の絆」が身にしみて実感されるのです。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)不思議なイエス様の言葉です。何故、「悲しむ人」が「何故、幸せなのか」。この逆説的な御言葉を、私たちは深刻な試練を通して学ぶことが出来たのです。人間は、苦難をわが身に深く実感する時に、時間と空間を超えて「共に悲しみを共有できる」経験が出来るのです。「悲しみ」が人と人を結ぶ「絆」となったのです。それが多くの失ったものに対する喪失感を乗り越えて、復興の力と希望になっていきます。悲しむ人と共にある時、そこに深い思いやりの情がわき上がってくるのです。この人間の奥底にある人を思いやる愛こそが、神に似せて造られた人のあり方であることを表しています。正に、これこそが人間性であるのです。「悲しみ」の中で人間性を取り戻し、「慰めが」心を癒し、希望を与えるのです。
 しかし、現実は「無縁社会」と言われる家族の絆を失った社会環境になってきています。社会現象として「孤独死」が増加しています。孤独は人間性の喪失であるといえるのです。イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」と言われています。教会はキリストを体とする神の家族なのです。その中心である聖書には「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Tコリント12:27)と記されています。ヨハネによる福音書15章には「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。」(:5)言われています。キリストは「ブドウの木」のようであるのです。その枝である一人一人には必ず実が実ると約束されています。イエス様を信じることの恵みは「多くの実」を結べるということです。キリストにあって「絆」が出来ると約束されているのです。それはキリストにある友であり、神の家族であるのです。
今日のみ言葉はマルコによる福音書2章の1節から12節の中風を病んでいる人が癒される記録です。イエス様が、カファルナウムに来られ、「家におられる」としか書いていないので誰の家か分らないのですが、すでにペテロの家で姑を癒やす出来事があり、おそらくイエス様はカファルナウムを拠点として活動しておられたようなので、ここに来るとペテロの家を常宿にしておられたと思われるのです。すでにみ言葉を語り、数々の御業をもって証しをされていたので、イエス様がおられることを聞いて多くの人々は家に集まり、身動きの取れない状態であったのです。そこへ4人の男の人たちが中風で苦しんでいる人を戸板に乗せて運んで来ました。長い間の闘病生活で苦しんでいるこの人をなんとかしてイエス様に癒していただこうと連れて来たのです。しかし、立錐の余地もないほど小さな家は人で一杯になっていたのです。そこで考えあぐねて家の横にしつらえてある階段を上り、イエス様のおられるあたりの上の平たい屋根の板を取り除いたのです。静かにイエス様の話を聞いていた人々は、ギーギーいう屋根を剥がす音で騒然となりました。そのようなことはお構いなしで4人の男たちは病人を戸板に乗せたまま縄でつり下ろしたのです。人々にははた迷惑な出来事ではありましたが、イエス様は、落ち着いてその4人の男の何にも構わない仕草を見て“何と信仰の熱意のある者だろうか”と感心されているのです。そして言われたのです「子よ、あなたの罪は赦される」と。そこにいた律法学者達は心の中で「神以外に人を赦すなどと言えない。」と言うのを、イエス様はその雰囲気から察知して「『罪赦される』と言うのと『起きて、床を取りて歩め』と言うのとどちらが易しいか。私が罪の許しの権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人に「起きて床を担いで帰りなさい」と言われると、みなの見ている前で立ち上がり出て行くのでした。人々は神を賛美したというのです。
 この事から信仰による恵みと力を多く教えられるのです。第一に、中風の人を救うために4人の人たちが癒しを求めてきたのです。イエス様は、非常識と思える屋根を剥がすという行動を目の当りにされ、その一途さ、熱意、愛と犠牲から「信仰を見て」下さいました。おそらくイエス様がしておられた話は中断されたのです。そこでイエス様は、言われるのです「子よ、あなたの罪は赦される」と。そこにいた律法学者たちは奇妙な感情でイエス様を睨みつけ「罪を赦すなんてそんな権威は神様以外にない」といぶかるのです。しかし、その時イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語られていたに違いないのです。そこへ中風の人が吊り下ろされてきた。この人たちの主イエスを求める信仰を見抜いて、そこにはすでに神様を受け入れている。神に近づく悔い改めが出来ている。私が、受け入れた。安心しなさいと言われるのです。その当時、イスラエルでは障害や病は罪の結果であるというように理解されていたのです。ヨハネによる福音書の9章にその問答を弟子達とされます。しかし、主イエスは盲目の障害は誰の罪でもなく「神の栄光が現れるためである」と言われたのです。主イエスは「あなたの罪が赦される」と言うのと「床を取りて歩め」と言うのとどちらが容易(たやす)いのかと問われるのです。神様の前にイエスご自身が罪の贖いとなられる。さらに律法学者を驚かせているのは、イエス様が「“人の子”が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という言葉です。律法学者はダニエルの預言の書に、正義が貫かれて救われるために“人の子”という方が来て下さると記してあることは知っているのです。それは救い主を表している言葉です。イエス様はご自分が救い主であることを宣言しおられることになります。その証しとして言われるのです。「床を取り上げて歩め」と。神様は愛と全能をもって証し、罪赦されることの大切さを示されたのでした。いちばん大切な事、それは心を砕かれて罪からの贖いを信じて主を待ち望むことであり、神様と共に生かされる喜び、その御心に生きる癒しの素晴らしさを示してくださったのです。 
第二に、イエス様は4人の人々の「信仰」を見られた。信仰は心の中のことであって本来見えないものです。見えない心の信仰が生活や行動に現れるのです。生ける信仰は生活に見えて生きた信仰であると言えるのです。4人の人は、イエス様を信じ、期待し、求めたのです。先ず、一人一人の信仰の熱意が、一人の人の病を回復させたいと言うことで一致しています。中風の人への愛が、一致を生み出しているのです。イエス様への信仰は愛の一致を生むのです。その愛の実現のために人には考えられない勇気を生むのです。屋根を剥がし、戸板を病人を乗せたまま下ろすことは全く非常識であるのです。一人の人を救う愛が、熱意となって行動させるのです。そして力を合わせるのです。バランスを崩してはこれは出来ません。出し惜しみしない行動の協調と共助です。一人一人の心の絆がキリストへの信仰の期待に結ばれているのです。これこそはキリストの教会の奉仕の姿であると言えるのです。
第三に、一人の人がキリストの恵みにあずかることを願って力を合わせているということです。キリストの救いに出会い、その恵みにあずかり、傷める生活を回復し、解放される事を願う姿をこの4人の人達は教えているのです。
キリストの愛にほだされ、キリストの愛に導かれ、キリストの愛に生きる信仰の「絆」を新たにしようではりませんか。

 

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