2012年 2月5日 礼拝メッセージ 

「キリストの活ける教会」
コロサイの信徒への手紙3章12―17節

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(3:12−14)

 この世の中に色々な魅力、人を引き付ける要素があるとすれば、「生きている」ということではないでしょうか。以前、北陸の氷見で伝道しておられる大引先生を訪ねました。久しぶりなので氷見の御馳走をすると言うので期待しました。 “鰤”を食べさせるというのです。鰤の刺身ぐらいは家で食べているのに、そんなに御馳走なのかな?と申し訳ないのですがいぶかりながら旅館について行ったのです。丁度、2月、寒ブリの豪勢な刺身が出ました。そしてご馳走になりましたが、この鰤の刺身は絶品でした。毎日食べる食べ物で、記憶に残る美味しい食べ物はそんなあるものではありません。その鰤の魅力は、“生きが良い”のです。聞くところによれば、小さな北陸の町ですが、シーズンにはバスで団体客が“氷見の鰤”を食べにくるというのには驚きました。“生き”のよさに引き付けられるのです。“生きている魅力”であるのです。
「活ける教会」は人を引きつける魅力があるものです。「活ける」ということは活動する、勢いよく動く、生きる、生み出すということになります。立派な建物があり、組織があり、人々がいても「活きた教会」でなければ真実の教会とはいえません。
「活きた教会」とはキリストが臨在される教会であるのです。
第一に、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Tコリント12:27)教会の中心はキリストであり、キリストを信じ、受け入れ、キリストの御心に生きる人の“交わり”であるのです。マタイの福音書18章の20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と主イエスは言われている。イエス様の御名、人格、教え、み言葉を慕い、信じ、生きる人たちの交わり、生活の中にイエス様をおられるのです。キリストにある交わり、即ち、命、生活を共有することです。前後しますが、19節にはキリストにあって一つになっている、一致している時、キリストを信じている者が思うこと、願うことは御心にかなう思いであり、その故に実現すると言われているのです。即ち、時や場所でなくキリストを信じ、受け入れ、従う人の交わりと祈りのあるところにキリストは共におられる。その交わりこそがキリストの体、教会である。祈り合える友がいる、そこに活ける教会があるのです。キリストにあって祈ることのでき真実の交わりこそが、キリストの臨在される教会であるのです。
第二に、キリストに祈る事は交わりの命であるのです。そして「御子(キリスト)はその体である教会の頭です。」(コロサイ1:18)と言われているように主イエスは権威であり、その言葉の力、命は交わりを生かすのです。その命こそ聖霊であり、言葉は人格であって、その言葉は聖霊の命によって活けるキリストの言葉であるのです。活けるキリストの言葉は、活ける神様の臨在を実感できる交わりであるのです。即ち、活ける教会であるのです。キリストと共にある喜び、感動が息づいているのです。人間の集まり、交わりは不完全なものです。罪多く、絶えず過ちを冒し易いものです。聖書は約束しています。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:12−16)
 第三に、不完全で未熟であるからこそ、今年の標語である「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。」(Tコリント16:3)というみ言葉の示すように「目覚める」即ち「注意して」「心を砕いて」み言葉に立って進もうではありませんか。
活きた教会は、み言葉、キリストの言葉を豊かに宿す交わりであるのです。交わりとは交流であり、分かち合いであるのです。コロサイの信徒への手紙には「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合いなさい。」(3:16)と記しています。成熟した教会は交わりの中で“互いに”教え、諭し合う事の中で祈りが生まれます。互いに重荷を負い合い、互いに成長するのです。相互に重荷を負い合い、補い合う、霊的交流こそが「活けるキリストの教会」であるのです。
第四に、活きた教会の交わりは、「神に選ばれ。聖なる者とされ、愛されている人」(コロサイ3:12)の交わりであるのですから、キリストによって与えられている「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身につけることに精進するのです。キリストを見上げ「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:12−14)キリストにある愛の絆で一つにされるところに祝福があり、勝利があるのです。
第五に、だからこそ、感謝ができ、(:15)「詩編と賛歌と霊的な歌により感謝して、神をほめたたえる。」(:16)事が出来るのであり、真実の礼拝、神様の臨在される喜びの礼拝、キリストの贖いを感謝する礼拝が生まれるのです。礼拝とは信仰の告白であり、感謝と賛美です。その礼拝が、活けるキリストとともに活きる喜びをクリスチャンに与えるのです。
「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。…そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3:15,17)

 

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