2012年 2月12日 礼拝メッセージ 

「天地の創造と神の愛」創世記1章1―6節

曾孫が生まれた。可愛い。生まれた翌日、見舞うとまだ見えない目をぱっちり開いてじっと見る目が可愛いのです。お乳をもらってすやすやと眠る。愛されている赤子。人は愛情の中で育てられ、育つ。人は愛で生きるし、生かされるのです。
人は自分の力で生きているように思いがちです。しかし、なかなか自分の存在そのものについて考えることがないし、気が付くことがないのです。自分が生きているということを少し思いめぐらして見ると、これはなんとも不思議なことではないでしょうか。生きることの最も根源的なことは「空気」を吸っていることです。そして「水」です。空気は誰にでも与えられているものです。水道のお金は払いますが、水は自然のもので、それで生きていることになります。そのように考えると全てのものが自然の中で成り立っていることが分ります。なくてならないものが、わけ隔てなく備えられているのです。
聖書の冒頭には「初めに、神は天地を創造された。」と記されています。日本の社会では古来から、規則正しくめぐる季節に従って咲き実る自然の中で、人知を超えた不思議な命が与えられているという考えがあり、自然の中にあるものすべてに神様が存在するという思いが霊性の特徴であると言われています。本居宣長は「尋常(よりつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物」つまり優れた働きがあって、恐ろしいものが、神であると言っているのです。そこで「何さまがおわしますかは知らねども、ただありがたさに頭うなだる」ということになるのです。やがて仏教が日本に入ってくると、転生から解脱、即ち、出家することによって誰でも成仏し、仏になるということが教えられるようになりました。一方、八百万の神、自然を神とする中で厳しい予測しできない災害に「厄」や「祟り」を恐れる思いをもつようになり、魂の迷い、不安となって、高度な科学的社会にありながら、時として奇妙な宗教に人々が迷わされてしまうのが日本の社会であると言えます。
第一に、聖書は「初めに、神が天地を創造された。」とあります。すべての存在に、創造の初めがあり、創造主がおいでになるということを示しているのです。その根源的な存在は、命の根源です。命と全ての存在の根源こそ、神様であるのです。被造物、造られたものは神ではないのであって、神様の御手の業であるのです。聖書は「いまだかつて、神を見たものはいない。」(ヨハネ1:18、Tヨハネ4:12)と繰り返し鮮明に語っています。神様は無限であり、永遠であるのです。存在を超越しておられるのです。人間の経験を超えて存在されるのです。どのような言葉でもってしても説明したり、証明することはできません。説明したり、証明する時には神様ではありえないのです。
第二に、すべての自然の存在は、極めて精密に関係しあって存在しています。ある人たちは、創造は自然現象であって“偶然”が重なり、相互関係しあって秩序が出来てきたと考えます。“偶然”の出会いは“偶然”でしかあり得ません。考える事が出来て物事は成り立って行きます。聖書には「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。…万物は言葉によって成った。」(ヨハネ1:1−3)とあります。言葉は、理性であり、知性であるのです。それは秩序を意味し、存在には相互のつながりがあるのです。自然の仕組み、人の体の構造などどれをとっても究極的な繋がりがあります。また、大きな宇宙の仕組みにも原則があって存在しています。「この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)と聖書は証言しています。
ですから、人間の思いや、想像で説明出来る神は、真実の神ではないのです。神様は理解して分るのでなく、“信じて”分るのです。
第三に、創世記の創造の記録によれば、「光あれ」と言う根源的な命の光を最初に創造し、先ず、大地に、水の環境を整えて植物と生き物の創造が描かれています。そして最後に、神はご自分に似せて人を創造されたと明示しています。人が生きる事が出来る環境を備えて人を生かしておられるというのです。前項で神様は偶然と混乱の神でなく、知性と理性をもって創造されていることが分かっています。神様の創造の根源的な啓示は、神様そのお方を創造を通して示すことであったのです。人が生きる全てを備えることによって「神が愛である」ことを啓示することにあったと聖書は明示しているのです。創造の業は神様を表すことに尽きます。「神は愛である」ことであるのです。
人の存在、生きることを支え、育むのは神様の創造の知恵にあり、愛であるのです。命の根源である空気や水に守られている現実に「神様の愛」を実感できるのは、神様を「信じる信仰」によるのです。愛されている喜び、守られている喜び、支えられている喜びがそこには湧いてくると言えます。だからこそ使徒パウロは「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Tテサロニケ5:16−18)とくりかえし言うのです。
 第四に、神様が愛である事は、その愛のあり方が聖書に一貫して示されています。それは、マタイによる福音書の最後にイエス様が弟子たちに語られた言葉によって明らかにされています。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」と言われています。それは神様、即ち、「父と子と聖霊」の神は、三位一体である方であるのです。三位一体は神様が愛である実態であるのです。そもそも、創造の完成において「極めて良かった」(創世記1:31)と神様は満足されるのです。しかし、創造の世界を人に委ね(創1:28)られたのですが、2章では神様から離れ、人は神様を見失い、欲の支配に身を委ねるようになります。そして生きる目標と意義を見失い、闘争と破壊の歴史が始まるのです。しかし、神様は愛である。その罪深い現実を放置されえないのです。神は、御子を遣わし、見えざる神を見えるようにされたのが、イエス・キリストの出来事です。イエスは言われています「わたしを見たものは、父(父なる神)を見たのだ。」(ヨハネ14:9)「わたしを見る者は、私を遣わされた方(父なる神)を見るのだ。」(ヨハネ12:45)。
そしてコロサイ書では「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1:15−20)と記しています。
イエス・キリストによって、その十字架と復活によって人が、神様の前に帰る道筋を備えられた事が分かります。「神は愛です」。その御心に尽きるのです。そしてイエスが召天されて後、弟子たちに約束の聖霊を遣わし、信じる人々の心に活けるイエス・キリストを内住させて下さったのです。神様の人格であり存在なる聖霊が創造の命に生かして下さるのです。記録された神様の恵み、神の言葉、聖書に生き、「聖霊に導かれて歩む」(ガラテヤ5:16)生涯を通して、神様の恵みを日日新たに体験して行こうではありませんか。三位一体なる主を賛美しよう。

 

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