2012年 2月26日 礼拝メッセージ 

「実を結ぶキリストの教会」ヨハネ15章1-11節

毎年、9月になると広島の三次におられる中村元兄から「黒い真珠」と呼ばれるピオーネが送られてくる。強い甘みでありながら爽やかな酸味があり、すっきりとした味が特徴。また大粒なのに身が詰まり、果汁が豊富な見事なぶどうである。ニューピオーネと呼ばれる“種なし”である。日本で品種改良された傑作である。教会ではみんなで頂きながら三次の中村家のために祈り、この素晴らしいぶどうを作った人たちの喜びを思うのです。着想し、開発し、作り上げ、地元の特産として三次の「黒い真珠」というブランドを開発した人々の喜びはどんなであろうか。今朝は、「ぶどうの木」の譬で有名なヨハネ伝15章1から11節のお言葉を通して学びます。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(:1)
「まことのぶどうの木」というのは、ぶどうの木は多くあるがイエスは「まこと」の木、命を与える喜びの木であると宣言されているのです。14章6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。」という言葉から「まこと」はまさに「真理」であり、人の生きる道、人が真実に幸せに生きる道、神様に至る道であることを言い表しているのです。2節には「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(;2)私につながっていながら「実」を結ばない者は取り除かれるというのです。5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」とあります。ぶどうの木はまさに「教会」を指しているのであって、「わたしにつながる」とは「教会」につながることを言っているのです。「教会」につながっていながら「実」を結ばないということは、教会の交わり、教会につながらず “結構”、自分で信仰を持っている、お祈りもしているというように、教会生活をおろそかにするうちに、やがて健康で健全な信仰は失われて行くことを指しているのです。ある人は、このような信仰は“火の消えたストーブである”と言っている。火が消えてまだストーブは温かいがやがて冷たくなると言うのである。未だかって教会の交わりのないところから福音が拡大された例はない。祈りと支えが大きく実を結ぶのである。C.F.ジュルゲンセンは、当時50歳で米国のオハイオ州のクリーブランドで雑貨商を営んでいた。ドイツ移民で、ようやく財産を築いたところであった。ジュルゲンセンは、娘の病気が癒されることをきっかけに聖霊の恵みを受け、海外伝道の幻を与えられた。家を整理して日本宣教に旅立つ。神学教育を受けたのでもなく、ただ、神様の導きにしたがって旅立った。1913年(大正2年)であった。しかし、米国ではこのような宣教師を応援し、相互の連絡をとって協力して交わり、教会を形成しようと1914年にアッセンブリーズ・オブ・ゴッドという団体が形成された。日本では大正、昭和にかけて軍国主義の弾圧の中で宣教は進まず、苦難の時が続いた。戦後は娘のマリヤ師が来日し、弓山喜代馬師と共に働き、13の教会から現在250の教会の交わりに成長しています。教会の祈りと支えとビジョンの交流があって“多くの実”を結んだのです。
教会、キリストの体(コロサイ1:24)につながり、その幹、キリストであるぶどうの木につながることの中で祈りの命に導かれて“多くの実”を結ぶことになるのです。
植物を育てると、花が咲き、実が実ります。実を頂くその喜びは育てる人の喜びであるのです。実は、生活、営みの中の成果であるのです。それは“喜び”として人の内に充実と感激の結果として表されるのです。キリストを信じる信仰の「実」は「喜び」であるのです。このぶどうの木の譬は「これらのことを話したのは、わたしの“喜び”があなたがたの内にあり、“あなたがたの喜びが満たされる”ためである。」(:11)と明確にその意図が示されています。ウエストミンスター大教理問答書の第一問に「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」《答え》「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、“永遠に神を全く喜ぶ”ことである。」とあります。神を喜ぶ、喜びとは何でしょうか。神様を信じる喜びであるのです。その喜びは、「神様に喜ばれる喜び」であるのです。クリスチャンの生活のモットーは「何が神に喜ばれるかを吟味する」ことにあるのです。(エフェソ5:10)また、ロマ書には「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、“神に喜ばれ”、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(12:2)神様に喜ばれる喜びが明白にされています。だからこそ「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(Ⅱコリント5:9)というのがキリストを信じる人の心境であるのです。なおパウロは言うのです。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」(ロマ14:17-19)神に喜ばれる人、神を喜ぶ人の交わり、即ち、キリストの教会は互いに真実に信頼しあえる交わりであるのです。真実の信頼は平和であり、固い絆であるのです。神様を喜ぶ、神様に喜ばれるところには、その目的実現のために何時も希望があることになります。
 主イエスはだから言われるのです「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが“豊かに実を結び”、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15;7,8)信頼は言葉にあります。言葉はその人のあり方、存在であるのです。わたしに留まる、キリストに留まるとはキリストの言葉に留まるのです。“とどまる”“いる”“つながる”という聖書の言語でεν(エン)が使われているところは、この言葉は前置詞で“中に”“うちに”という意味ですが、2節などは“繋がっていながら”と訳されていますが、ある訳《ゲラ訳》では「わたしにいる」になっているのです。これが2回出ています。μένω(メノ―)という言葉は英語ではIndwellという意味であって“に住む”“宿る”“暮らす”などの意味が含まれている。この言葉が10回出ており、それが“つながる”“ある”などと訳されているのです。言換えれば、このメノ―という言葉はキリストに“つながる”という言葉であると共に、キリストの言葉に生きる、暮らす、宿す、即ち生活そのものがキリストの言葉になりきる事を意味しているのです。キリストを信じることは、キリストの言葉に生きることになるのです。キリストの言葉を信頼する。だから、キリストの言葉に生きる、暮らすのです。ロマ書12章の2節は「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と訳されていますが、口語訳では「この世と妥協してはならない。」となっています。この意味は「この世の図式に従ってはならない。」という意味であるとある注解者は言っています。倣うだけでなく、妥協するな、この世の仕組みでなく、神様の御心に生きる事を言っているのです。
人の目的、人生の目的は「全く神を喜ぶ」ことにあるとすれば「この世」の仕組みが神様のみ心に合わない時は、クリスチャンはそれに従うことは、神様を悲しませることになるのであり、神の悲しみはクリスチャンの悲しみであるのです。神の喜びに生きるクリスチャンはそれを乗り越えなければなりません。神様の喜びに生きる者は、勇気と決断を持たねばならないのです。それは決して強制ではなく “神様の喜び”に生きる“喜び”がそうさせるのです。そうしなければ生きる喜び、生甲斐が失われるからです。
そこで教会、ぶどうの木につながる枝として、その命はキリストのみ言葉にあるのです。特に、一週間の生活は聖書に基づく、神様の御心によるものでなければなりません。日曜日に礼拝を守ることが信仰生活の基本なのです。主イエスの復活と神様の創造の業を思い、生かされている恵みを感謝し、復活の出来事を通して罪の赦しと永遠の命の喜びを思い、感謝と神様の栄光をたたえることの何ものにも代えがたい祝福を感謝し、御名を崇め、ともに礼拝することはクリスチャンの第一の務めであるのです。感謝と喜びが、賛美となり祈りとなるのです。豊かな実を結ぶ教会は一人一人のクリスチャンの真実の信仰の交わりから生み出されるのです。
喜びの教会こそ勝利の教会であるのです。喜びの教会とは福音が証しされ、霊の子供を生みだす宣教の教会であるのです。

イエスの弟子たちは喜びに満たされて「至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:20)

 

 ページのトップへ
  
2012年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ