2012年 3月11日 礼拝メッセージ 

「キリスト・希望」
ルカ18章35−43節

今日は3月11日、東日本大震災から一年たちました。まだまだ復興に遠く、家族や家庭、職を失い、人生が変わってしまった方々や、また原発事故のために故郷に帰ることのできない人々も大勢おられます。まずその方々のために祈りたいと思います。
長い年月をかけて忍耐強く積み上げてきたものが一瞬にしてなくなってしまうという体験を人は繰り返ししてきたのではないかと思います。私たちも大震災を17年前に体験してきました。戦争は人の愚かさ、欲からくる人災と考える事が出来ます。しかし、天災は避けようがない場合が多いのです。また思いがけない事故にあったり、あるいは病気になってしまうこともあります。これらの人生におけるマイナスとしか考えられない事態に、人はたびたび遭遇してしまうのです。試練、あるいは人生の苦難といえるでしょう。そのような事態に陥った時にそれをどのように受け止められるかで、人の生きる力が全く違ってきます。嘆く、恨む、悲しむ、悔や、あるいは恐怖といった思いにとらわれるのはある意味当然と考える事ができます。しかし、それは絶望に至るのです。せっかく震災で助かった人でも、その後自殺という道を選んでしまった方も多いのです。命が助かったのだから、元気で新しい道を踏み出せばよいのにと思いますが、それができないのです。
さらに、起きてしまった事実を解決できないという事と共に、将来に対する不安を持つのも人ではないでしょうか。関東では近い将来地下直下型地震が起こる、しかも震度7という予測がされています。関西でも南海地震が起こるそうです。不安材料は数限りなくあります。絶対安心なことなどあり得ないという中で私たちは毎日生きているのです。
今日はルカ18章35節以下のイエス様が盲人を癒してくださったという記事を読みました。マルコによる福音書と、マタイによる福音書にも並行記事があります。マルコには盲人はテマイの子、バルテマイと名が記されていて、物乞いをしていたとあります。福祉制度のない時代、寡婦や孤児、障害をもつ人々は生きるための手段がなかったと思われます。目が見えないということは、大変な事です。以前自動車を運転していた時、車道のない道の右側を向こうから白杖をもった方が歩いてこられました。車は左側を通っています。ところがその方はどうしたことか、だんだん車の方にかなりの早さで近づいてきてしまうのです。車を止めたまま小さくクラクションをならしましたが、その方はますます近づきます。いくら止まっている車でも、ぶつかったら怪我をしてしまうと思い、車から飛び降りて止めましたが、何が何やらわからない風で、又歩いていかれました。他の車がいなかったから無事すみましたが、見えない生活は、危険をともなうと、つくづく感じました。
エリコで生活していた、盲人バルテマイの心の中を考えてみましょう。
1 同じことの繰り返し
朝から道端に座る。あわれみ深い人はいくばくかのお金を恵んでくれる。それで生計を立てていく。また次の日も同じ。生きている限り、それが続いていく。使徒の働き3章の生まれながら足の不自由な男の人は、神殿の美しの門に毎日「運ばれてきた」とあります。バルテマイは自分で歩けるだけ良いのかもしれません。でも、毎日毎日物乞いの日々が続きます。将来に対する希望もビジョンも持ちにくいのではないでしょうか。
2 良いニュースを聞く
ある日、大勢の人々が町を通っていく気配を感じました。「これはいったい何事ですか。」「ナザレのイエスのお通りだ。」たったこれだけの情報が彼の人生を変えました。バルテマイはイエスの事を耳にした事があったのでしょう。癒しの事も聞いていたかもしれません。どうしてもイエス様に近づきたい。彼は大声で「わたしを憐れんで下さい」と叫び続けました。貧しい、物乞いの盲人をまともに取り扱ってくれる人はあまりいないと思います。叫び続ける彼は叱られ、黙らせようとされましたが、ますます叫び続けたのです。イエスの耳は、聞こえる耳です。貧しい者、弱っている者、苦しんでいる者、悲しんでいる者、疲れている者、死にたいと思っている者の声が届く耳をもっておられます。イエスは立ち止まって盲人バルテマイをそばに連れて来させたのでした。バルテマイは、上着をかなぐり捨てて躍り上がって主の元に行ったと、マルコの記事にあります。自分の願いが聞かれ、きょうから新しい生涯が始まるという喜びがすでに与えられていました。「福音」「良いニュース」はイエスの事です。求める者を退けず、救いを与えて下さる。答えがあります。主イエスというお方の情報が入ったら、直ちに御許に近づきたいものです。イエス様はいつも私たちと共におられる方です。「イエス様がおいでです。」という情報を発信し続けたいものです。
3 見えるようになりたいのです。
イエスはバルテマイがそばに来ると、「何をしてほしいのか」と聞かれました。「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」イエスは御業によって人を救われる時、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われます。ルカ8章に12年間病気で苦しんでいた女性がイエスの服の房にでも触れば癒されると信じ、事実癒された時にも、同じように語って下さいました。「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)という信仰が力となるのです。バルテマイは癒され、神をほめたたえ、イエスに従っていきました。群衆はみな神を賛美し、あがめたのです。
「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力にわたしは目を注ぎます。」(詩119:18)口語訳聖書では「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください。」と訳されています。信仰の目が開かれることを求めなければなりません。
バルテマイは希望を再び持つことができました。イエスは、希望を与えて下さる方です。
希望とは、可能性と考える事ができます。
最近、許しと希望をテーマとしている、フィンランド映画「ヤコブへの手紙」をDVDで鑑賞しました。1970年代のフィンランドの片田舎の牧師であるヤコブは、様々な人が寄せる相談や、祈りの要請の手紙に応えることを日課としていました。彼は高齢の一人暮らしで、目が見えなくなっており、受け取った手紙を読んで、彼が言う通りに返事を書いてくれる人が必要となっていました。レイラという女性が登場しますが、彼女はかつて自分の姉の夫(大変なDV夫でいつも姉をひどく苦しめていた)をはずみで殺してしまい、終身刑で服役していました。ヤコブ牧師はレイラの姉の陰ながらの要請もあり、レイラが恩赦で出所できるように働きかけ、やがて出所したレイラを牧師館に迎え入れます。レイラは手紙を牧師の前で読み上げ、指示されたとおり返事を書きます。レイラはいやいやながらこの手紙の仕事に携わり、牧師の目が見えないことにじょうじて、せっかく届いた手紙の束の内、何通かは井戸に投げ捨ててしまうようなことすらしてしまいます。しかし、年老いて物忘れがひどくなるヤコブ牧師が、どうしたわけかぷっつり手紙が来なくなってしまったことで、力をなくしてしまう姿をみて、レイラは自分の過去について「親愛なる牧師様」と、手紙を読むように語り始めるのです。いくら暴力がひどくても、姉の大切な夫を手にかけて殺してしまったという罪悪感で、自分を許すことが出来ず、心を閉ざし、自分の将来も希望ももてないレイラが、このような人でも許されるのかと問うと、「神にはできる」と答えが返ってきました。そのみことばに可能性を見いだせたレイラでした。しかしヤコブ牧師は力が尽きたか、倒れ、召されてしまい、レイラは不安を持ちながらも、新しく歩み始める、人生を再び生きるという「希望」で終わる映画です。 
主イエスはどのような状態からでも立ち上がらせて下さるお方です。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と語っておられる方です。
私たちに必要なものは主を信じる信仰です。主イエスを信じる者には希望と可能性があるのです。
あなたは今日主に何を求めますか。家族の救いですか?自分の将来ですか?仕事の事ですか?人間関係ですか?主は聞いて下さいます。主に聞いていただいたら、私たちは主に栄光を帰し、ほめたたえ、「イエスがお通りだ。」「イエスがおられます」「イエスは救い主です」と発信しましょう。魂の救いと、自分の信仰のために祈りましょう。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」ローマ15:13

 

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