2012年 3月18日 礼拝メッセージ 

「人は愛で生きる」
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
ヨハネによる福音書15章13節

最近、母親が育児放棄で二児を死なせて、懲役30年という判決を受けたというニュースが流れた。一人では生きる事ができない幼児が、精神的に、肉体的にどれほど苦しんだかと思うと、涙が止まらなかった。また、一方、高齢者への虐待、介護放置などが後を絶たない。そこには失われている共通のものがある。それは“人の愛”である。人が人として生きるには“愛”が不可欠である。人が“愛”する心を失っては人として生きることは出来ない。神様を信じることは、神様を信じて神様が分かり、神様の心を取り戻すことである。聖書は「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創1:27)と言っている。神様をかたどるとは、人の本性は神にかたどられているということである。神様の本性は、「神は愛である」と聖書は言っている。人は神様の愛を持って生きるように創造された事になる。神様を見失う時に、真実の愛を見失う。神様を信じなくても、人は愛で生きる。しかし、その愛は“自己愛”であって自分の願い、欲望を満たすことが中心になる。自分の願望だけで生きるときに破壊と混乱となるのです。会社でも地域でも、国でも自己中心、自己主張だけでは必ず、トラブルになってしまう。
愛しあって生きることこそ、神様が示して下さった愛に生きる事になります。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子(キリスト)を世にお遣わしになりました。その方(キリスト)によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネT、4:7−10)
神の愛がキリストによって現わされたのです。人を救うために自己を犠牲にする愛です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15;13)愛は、愛する人のために犠牲になることを意味している。イエス・キリストは、人々に愛の道を示すために十字架の犠牲になられた。人は両親の愛にはぐくまれ、兄弟愛に囲まれて成長する。友が出来、人と出会って愛し合う事の中で生活が成り立つのである。愛は、平和に生きる命である。愛は、希望です。真実の愛、キリストに示された神様の愛こそは人の幸せの土台であるのです。石井十次はこの愛に目覚め、キリストの愛を実践しました。まだ、福祉が未熟な時代、キリストの愛に目覚めた石井十次は一人の貧しい幼児に出会って助けることから、現代日本の福祉の基礎が築かれたのでした。濃美大震災の震災孤児救済を始め、東北大冷害被災の孤児救済に挺身し、千二百人の孤児を救済する施設を建て上げるのでした。
石井十次は、友のため、孤児のために命を捨て、キリストの愛に生きたのです。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(:13)・・・平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。(:33)」

映画のストリー


ブラジルの日系老人ホームでひとりの老人が、一枚の写真を孫の日系ブラジル人のニシヤマ・ヨーコ(22)に残して他界した。 そこには、西郷隆盛を彷彿とさせる大男の姿が写っており、裏には、『石井のお父さんありがとう』 と書かれていた。ヨーコは、日系人である自分のルーツを探るために、そしてその“石井のお父さん”とは誰なのかを知るために、祖父の生まれ育った日本・宮崎の地へ向かう…。宮崎の児童養護施設で、園長と出会ったヨーコは、祖父が育った“岡山孤児院”の存在と、福祉という言葉もない明治時代に、命と生涯をかけて、3000人もの孤児を救った“石井十次”という男の名を知る。次第に解き明かされていく、十次の波乱万丈の生き様。そして、まさに奇跡としかいいようのない偉業の数々。一度は放蕩に身を持ち崩しつつも、改心して立ち直り、“孤児の父”として、次々に襲ってくる困難を、祈りつつ、あふれる愛と斬新なアイデアをもって乗り越えていくその姿は、まさに“愛と炎の人”であった。




“愛と炎の人”石井十次の生涯
石井十次は慶応元(1865)年に、現在の宮崎県高鍋町に生まれます。そして医学を志し、岡山で医学を学んでいました。この時、キリスト教への信仰を深め、入信します。そんな時、夫を失い途方にくれる四国巡礼の貧しい母子に出会い、その長男を預かり育てる決心をし、ここから本格的な孤児救済運動を始めます。 しかし、当時は「社会事業」という言葉も「公的補助制度」もないすべてが初めてで、資金繰りから何もかもを自分の力で切り盛りしていかなければならない五里霧中、孤軍奮闘の状態でした。彼はこの間、医師としての道を歩むべきか悩んでいましたが、聖書の「人は二人の主に仕うること能わず」という言葉に感動し、医学書を焼き捨てて孤児院の仕事に一生をかけることを決意します。 孤児院の子供は次第に数を増し、明治24年の濃尾地震では、多くの震災孤児を引き取り、孤児数は数100人にも達したといいます。この時の運営資金は主に民間の寄付金で成り立っていましたが、その中でも最大の経済支援者は、後に出会う岡山県倉敷市の大原美術館創立者 大原孫三郎(倉敷紡績会社社長)でした。その後石井十次は、孤児院経営を寄付に頼ることをやめ完全な独立をはたすために、宮崎県の茶臼原という台地の開墾と孤児の移住を始めますが、この台地の開墾は困難を極め、一時は事業をいったん中止せざるをえなくなります。

しかし、不屈の闘志で事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功します。この「茶臼原孤児院」では明治38年の東北大飢饉の被災児を引き取り、孤児数1200名にも達したといいます。ところが、孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、今までの苦労が祟ったのか、腎臓病によって亡くなります。

 

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