2012年 3月25日 礼拝メッセージ 

「愛と奉仕の恵みの実り」
ヨハネによる福音書10章11−18節

今朝の聖書の個所はヨハネによる福音書10章です。この個所は「よき羊飼い」という名称で繰り返し語られる個所です。しかし、今朝は「愛と奉仕の恵みの実り」と題してみ言葉を取り次ぐことになりました。特に、26節の「わたしには、囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かねばならない。」というお言葉に心を寄せて過ぎし日の恵みを感謝すると共に今後の宣教への新しい出発としたと思います。
40年間続いて地域社会に奉仕してきた教会の保育事業が今週で終わることになりました。私たちの教会のモットーは「地域に根差し、世界宣教のビジョンに奉仕する」ことにありました。これからもこのモットーは変わることはないと思います。
そもそも「囲い」とはキリストを牧者とする「教会」を意味するのです。「一つの群れ」となる、共同体、命を分かち合う、神様の愛に生きる交わり、共同体を意味するのです。ドイツ語で教会の教会堂はキルヘ(Kirche)といいゲマインデ(Gemeinde)は教会ですが教会員、共同体を意味します。私たちの教会は、1953年、出屋敷の駅前で天幕を張って伝道集会をしたのが始まりであるのです。西難波公園の北側の長屋で家庭集会が始まったのです。この「一つの群れ」、イエス様を信じる人々の「群れ」が、イエス様を礼拝する場として1955年、現在地に土地を得て小さな会堂が出来たのです。この群れは祈りの群れであり、世界の人々の祈りに支えられて土地と会堂が備えられたのです。教会はキリストの愛に生きる共同体、神の家族であるのです。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(Tテモテ3:15)
第一に、教会は、活ける教会であることです。「活ける教会」とはイエス様を信じる信仰が生きていることにあります。主イエスが「わたしはよい羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(:11)と言われている如く、教会が、主イエスの命に養われ、その命である「愛」に生きている教会であなくてはならないのです。思想や言葉、建物、形式、組織があると言うのでなく、根本的に大切なのはキリストの罪の贖いによって目覚め、救われた人達がキリストの愛に互いに生かされる。そして現実にイエス・キリストが約束される祝福が現実的に生きる教会であるのです。祈りは形式でなく、実際に活けるキリストが応答して神様の恵みを体験する教会であるのです。先週は現代日本の福祉の父と言われる石井十次の生涯を映像で見ました。医学生の十次は、研修医として診療に従事しながら不幸な行き倒れのような巡礼親子に出会い、子供を引き取る事になりました。彼は医学の道から孤児救済に専心する生涯を歩むのです。全く福祉に理解のない時代、彼は教会の善意に支えられて事業を進めるのです。今日の糧に窮する時、衣服を脱いで質に入れ、そのために祈るのです。主イエスの名で祈る祈りで、多くの人々の支えに導かれ道が開かれるのです。主イエスは生きて今も真実であることを物語っています。
私達の教会が1960年代は私が赴任した年ですが、高度経済成長期に入り尼崎は工業都市として多くの働く人が集まり、出屋敷は毎朝、何千人の出稼ぎの労働者でごった返していました。一ヶ月に何人かは経済的な困難で一宿の宿を求める人が教会に助けを求めてきました。中にはアルコール依存症になっている人もありました。食事の必要な人には食事を、宿の必要な人には宿を提供しました。それには牧師と家族の犠牲が付いて回りました。しかし、主イエスがおられるところにいつも必要なものが備えられていました。その業は目に見えるところは、空しく終わることが多くありました。しかし、主は言われるのです。「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25:34−40)活ける教会とはキリストがおいでになると信じる教会であり、一人一人がキリストの愛に生きることを指しているのです。
福音が、キリストの愛を伝える前に、教会の中でキリストの愛が生きていなければならないのです。
第二に、「よく羊飼い」は「囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。」というのです。先ず、囲いの中の羊と囲いの外の羊を同じようにみていることに注目しなければなりません。神様には差別やえこひきはないのです。教会の歴史は2千年の内にこの世の仕組みにかかわり、変化してきた。その一つが政教分離であります。様々な苦渋の歴史的経験から政教分離が言われるのであるが、政治とかかわらい生活は成り立ちえないのです。今日の人権意識を基本にした治世では生活と政治は密接な関係があり、そもそも民主主義では政治やこの世の仕組みの責任は市民にあるのです。民主主義は聖書の教える基本なのです。互いに助け合う共同体を意味します。先ほどのGemeindeという語は「市民」という言葉でもあるのです。教会があるところ、クリスチャンが暮らすところ、その町の人々と責任を共有する事がなければクリスチャン、活ける教会員としてキリストの愛を証しすることはできません。今週、教会の保育所は閉園しますが、1960年代は人口増加の社会現象と高度経済成長の都市集中で保育所の待機児童が尼崎市では6千人以上になっていたのです。地域社会から学童保育が未整備なので教会を解放するように要請がありました。色々と考えているうちに、当時、PTA会長をしていましたが、小学校では教師の欠勤が多くてPTAで問題になったのです。その理由は、子供のいる教師が保育所がないために世話を両親にお願いするが、高齢でしばしば病気になると言うのです。「先生、お産は夏休みの初めにして下さい」というような発言もあったりして。会長の教会を解放してはということになったのです。色々な用具や準備の資金、人材の確保などの諸懸案は祈り始めた時に道が開けて来ました。新聞が保育所を開くのでベービーベッドや遊具を寄付して下さいと広告を出してくれました。教会の姉妹たちを中心に保母になってもらい保育所が始まり子供が溢れました。その後、尼崎市は認可外の家庭保育制度を設けて財政的に心温まる支援をしたのでした。働きたくても安心して子供を預けられる保育所のない事は父母にとってどれだけの苦悩か分りません。囲いの外の問題をも共に重荷を負いうる教会となることが出来たのです。その後、保育所は全小学校区に一つという効率のよい整備されました。家庭保育も公認の諸条件を満して法人となってきました。また、バブルの崩壊の時は市行政改革計画に保育所縮小の案件が出されました。まだ待機児童のいる状態でした。丁度、その頃、市議会の支出不明問題で議会が解散する事態となり、保育行政の確保の問題と相まって地域から市議会に選出されることになりました。保育所問題は解決され、私立民間委託で幼少児保育にめどが立ち計画通り本年に家庭保育の財政が終わりになってきたのです。依然。問題は残りますが、幼稚園もこども園制度が出来、ようやく皆(かい)保育(ほいく)の時代が近づいて来ています。時は変わり、少子化で教会の地域の小学校は合併する事態となっています。また、高齢化が進み、孤独死、無縁家族などの問題が心配されるようになり、老人給食や、高齢者見回り隊運動など教会は地域の社会福祉協会、老人会などの地域的な場として奉仕しています。「囲いの外」の人々と共に歩み、キリストの愛を証ししているのです。
すでに、地域育友会・学校より感謝状を頂き、尼崎市から野草氏と白井氏の両市長から表彰状を受けています。昨年には兵庫県知事より「自治賞」をもって地域社会福祉奉仕の表彰の栄誉に預かっています。なお、その他に地域高齢者活動の表彰状を2回受けているのです。私たちはキリストの愛を囲いの外でも生かす主の言葉に生かされているにすぎません。この地上の命を共にし、一人でも多くの人が永遠の命に預かって下さることこそ最大の喜びであるのです。地域の重荷を分かち合い、愛に生る宣教の教会であり続けるのです。この祈りと宣教の奉仕は、世界への祈りの輪となり宣教として広がっているのです。
主イエスの最後の言葉「全世界に出て行って福音をのべ伝えなさい」(マタイ28:20)に生きる教会であり続けるのです。再臨の日まで。

 

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