2012年 4月1日 礼拝メッセージ 

「キリストの十字架の意味」
ルカによる福音書13章13-41節

十字架の記しはキリスト教を表している。建物に十字架が付いていれば教会であると人は普通思う。日本の多くの教会は、色々なところで福音を伝える時、大抵、始めは借家から始める事が多い。その時は必ず建物に十字架をつけるのです。そうすればキリスト教の教会だなあと、人々は思うからです。キリスト教の2千年の歴史には色々な時がありました。エルサレムでキリストが十字架に架けられて、それまで従っていた多くの人々も官憲の取り締まりでちりぢりになって散ってしまいます。聖霊を受けたキリストの弟子たちは、迫害を受けながら復活のイエスの福音を伝えます。人々は小さな十字架を胸に書いたり、魚の絵を描きました。“魚”はイクスース(ίχθύς)と言ってその一つ一つのスペルが“イエスはキリスト、神の子”( Ίησύς Χριστός θέος υίός) であるのです。魚の絵を描いてしるしとしていました。魚もキリスト教のシンボルになっていたのです。やがて4世紀の初めにローマ帝国でキリスト教が公認されて建物に十字架をつけるようになり、クリスチャンの集まるところとなったと言われています。今では十字架はペンダントにまでなっています。よく考えると十字架は重犯罪者が処刑される忌むべきものであって、生活のなかで飾り立てるようなものではないのです。キリストを信じる人々にとっては、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)であるのです。十字架の言葉、そのメッセージはクリスチャンにとっては命であり力であるのです。キリスト教の中心的な教えであり、命であるのです。だからこそ十字架は信仰のシンボルとして建物につけられると、それはキリストの教会でるとみられるのです。
復活祭の前の一週間は克己週間と言って、イエス・キリストが金曜日の朝十字架にかかられる苦しみを偲ぶ日々として、キリストの御心を偲び、復活の日曜日の前に十字架の意味を心に留めて、信仰の恵みを改めて深く自覚する時であるのです。キリスト教信仰の中心であるキリストの受難、十字架を来週の復活祭を前にして新たに覚える時としなければなりません。
第一に、何故、イエス様は十字架に架けられる重罪になったのか。ユダヤはローマ帝国の植民地であってユダヤの自治権を認めながら、重税を課して支配していました。政治や治安に関する裁判など以外は、民族の宗教や習慣を認めて統治していました。ユダヤの法制はモーセの律法を適応したものであり、最高審判会議はサンヒドリンという衆議所で大祭司が最高責任者となって、祭司や律法学者、部族の長老を中心に71人で成り立っていました。イエス様の教えは多くの人々に影響を与えていました。一大勢力となって騒乱が起こると治安が保てなくなり、内乱となることをローマの統治者は恐れていました。ユダヤ人の側ではイエス様の教えが国法であるモーセの律法の解釈と違い、自分をキリスト、神の子であると宣言されるイエス様を放置することが出来ない状態になっていたのです。モーセの律法によって死刑と判決を受けても、その死刑の確定の権限はローマの統治者にありました。そこでユダヤの律法では死刑にすることは出来ないので、ローマの統治者に告訴することになるのです。サンヒドリン(最高法院)でイエス様を「お前がメシア(キリスト)であるのか」「お前は神の子なのか」という尋問をすると、イエス様は「あなたたちはそれを信じないだろう」言われました。その言葉で罪状を確定して死刑に処することにするのです。しかし実際の死刑の確定権限はローマの政権に権限があるために、ローマの統治者である総督ピラトに上告しなければならないのです。彼らは「人民を惑わし、納税を禁じ、自分が王であるメシヤ(救世主)であると言っている。」と告訴するのです。ローマの認可を受けた王でないものが、王になると言っているという政治性を持たせての告訴です。それでガリラヤの封主としてのヘロデ王もエルサレムにいたので尋問させるのです。ヘロデもイエス様が奇跡を行い人々をひきつけていることに興味を持っていたので喜んで迎え入れるのです。しかし、何を言っても答えられないイエス様を、祭司長や律法学者が激しく告発します。ヘロデは嘲り、侮辱して送りかえすのです。総督ピラトは、あくまでこれはユダヤの宗教的な問題であって、実際に死刑にすることはない。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。」(:13,14)とピラトは言うのです。過越の祭りの最後の日には一人の罪人を特赦する慣例でした。ピラトは「この男は無罪である。この男を釈放しよう」と言うのでしたが、群衆は暴動と殺人で逮捕されたバラバを赦せと言うのです。(バラバはユダヤ独立運動でローマに反乱を起こした)幾度か繰り返したが、どうしてもこのままでは治安が維持できないと判断して総督ピラトはさじを投げて群衆がいうように政治的判断で妥協してイエス様を十字架に架けるのです。
イエス様の告訴は、1、律法を守って救われる事に対して、どのような人間も罪深いものであり、反省して悔い改めて神様の赦しを待ち望む事。2、永遠の命こそはイエス様を神の子と信じることによる。イエス様は甦られる主である。3神の国は今、愛に生きるところにある。イエス様を信じて生きることであったのです。
言換えれば、イエス様は真実の神の愛、救いの道、永遠の命を語り、教えられたために十字架にかかられたのです。十字架は神様の聖と愛と義が、赦しを与え、その命の根源であるのです。人が生きる真実の愛と平和、神の国を現実に造りだす命と希望、力と勇気であるのです。
十字架は人の罪を裁くものでありありながら、愛と平和と勝利のシンボルであり、神様の約束であるのです。
第二に、キリストの受難は、人間の平和の鍵であるのです。共に生きる人の生活は、自分の欲望や利益に振り回される罪深い現実に、争いと対立が続くのです。犠牲を払うことなしに「共に生きる」ことは出来ません。「譲り合う」事の調整が、共に生きる可能性を生むのです。「共に生きる」ことは「譲り合う」ことでもあるのです。「絆」が切れるときに「人は共に生きる」事が出来ません。「絆」こそは「愛する」ことにほかなりません。「愛がない」ということは「無関心である」ことです。無関心は「無感動」でもあるのです。物事に無関心、無感動なところには「絆」は結ばれることがないのです。そこには「愛」がないからです。「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:8)のです。“感動され、関心をもたれる”神です。人が罪を犯して混乱と悲劇の中にあることを見過ごされないのです。幸せを共に喜ばれる神様であるのです。十字架の受難は、神様の愛の犠牲が現わされているのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)“大きな愛”は“純粋な愛”であるのです。それはまた、“真実の愛”であり、“偉大な愛”です。人の愛でなく、「神様の愛」であるのです。自分を捨てる、自己犠牲を表す愛こそが「完全な絆」であると言えます。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:12-14)
十字架に表された神様の御心がこの言葉に示されています。毎日、十字架を見上げる時、この言葉が、日々の歩みの中で実を結ぶことを祈らねばなりません。共に生きることは苦労を共にすることであるのです。共に重荷を負える人でありましょう。キリストの十字架を背負う人でありましょう。主イエスは負えない重荷は背負って下さるのです。だから共に重荷を負い合うことが出来るのです。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 
(マタイ18:20)                                 
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」              (マタイ11:28)

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