2012年 4月8日 礼拝メッセージ 

「復活と永遠の安らぎと希望」
ルカによる福音書23章50―24章1−12節

イースターを心よりお祝いいたします。今日は復活祭です。イエス・キリストが死から甦られたことを思い返し、信仰を新たにする時です。全ての人に例外なく訪れるのは、人生の終わりと考える事ができます。それは「死」です。死とは離別と消滅です。「死」は儚く、空しいものです。それは現実との断絶を意味します。それは淋しい孤独の旅立ちです。先の見えない消失の未来なのです。また、聖書は、死は敗北であると言っています。(コリントT15:54)人生の最終地点は、敗北であり、孤独、静寂、消滅、離別、空虚、絶望であるのでしょうか。この厳しい現実には諦めしかないのでしょうか。
イエス様は言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25)イエス様は明白に「死ぬことはない」人生を語っておられるのです。イエス様を信じるときに出会い、発見し、経験する「命」、即ち「永遠の命」終わりのない、変化のない命を経験するのです。聖書は明確にしています「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ3:16−18)。
この言葉は人々に対する神様の御心を表しているのです。
第一に、「一人も滅びないで永遠の命を得る」為であると言っています。「滅びる」とは人生を空しく生き、絶望で死を迎えることであるのです。そうではなく「永遠の命」、それはイエス様を信頼してその言葉と教えに従う時に出会う「命」、即ち、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」という経験と確信に出会うのです。ここでしっかりと受け止めなければならないことは、「死ぬ」と言う出来事は誰にでも来ることであるのです。肉体は生理的に年と共に衰えます。また、人生の中で、さまざまな場面で死に出くわすことがあります。年齢的にも千差万別であるのです。昨年の大震災と津波の災害で多くの人の命が失われ、人の命と人生を深く思いはせる時でありました。死と出会わなければならない場面で、「死んでも生きる」という約束がどれだけ大きな支えとなり慰めであったかと思います。イエス様は、神の御子として死んでも復活し、甦ることを教え、約束されました。「わたしを信じる者」は「死んでも生きる」、即ち、復活することを約束されているのです。それが単なる理論であり、教えであるのでなく、事実、イエス様は裁判を受けられ、十字架に架けられて葬られたのでした。三日目の朝、香料を塗布するために婦人たちはイエス様の墓に行くのです。そこにはイエス様の遺体はなく、呆然としていると二人の御使いの言葉を聴くのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」(ルカ24:5,6)それは、イエス御自身を信じる者が甦るという約束を事実として証しされている出来事であったのです。死からの甦りを信じることには、その後の教会の中でも、繰り返し議論されてきています。そこで使徒パウロは明確に言います。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」(Tコリント15:12−15)」
この復活の約束は、生命の命としては移り変わるのです。しかし、人の霊的命は不変です。外なる肉の命は形相(表立った形)は変わるのですが、資料(内なる命)としての内なる霊的命は変わらないのです。そこで再び、使徒パウロは断言します。「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」(:35−38)だから復活の体について確信を持って語るのです。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(:42−45)
第二に、「世を愛された。独り子(キリスト)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)「世」とはこの世のすべての人をいい、その一人一人が滅びないで、空しく、絶望的な死で終わるのでなく永遠の命、永遠の神の国に神様との交わりに生きることを言っているのです。それは神の本質が愛であるために、一人の人の不幸を望まれていないのです。そもそも「死」の不幸の根源は、「罪」にあります。その罪こそは死に至らしめる元凶であるのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)罪の根源は、神様を信じないことにあります。神を信じない時、人は自分が中心になります。自分が中心とは、自己の願望による生き方になります。そこから欲望、我欲、欲情が中心となるのです。使徒パウロは言います。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」
(ガラテヤ5:19−21)神様は御子イエス・キリストを通して神様の愛を示され、罪の支払う値として十字架に命を投げ出し、究極的な神様の愛を表されたのでした。イエス様に出会い、その罪を言い表し、悔い改めて、イエス様を信じる時、永遠の命を約束されるのです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ3:23,24)キリストの十字架の贖いの内に、神様の愛が永遠の命の約束として示されているのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9−10)
第三に、永遠の命とは、限りない命、死後の命ではなく、今の命、その人生、神と共に生きる生活であるのです。神の国は神様と共にあることです。イエス様は約束されています。「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)今、現在が神様と共にあるところこそが永遠の命であるのです。キリストの愛が示されているところこそは神様の存在されるところであるのです。
今生きながら、神の命、神様の愛に生きているところで永遠の命に生かされているのです。永遠の命に生きることはキリストによって現わされた神様の愛に生きる命であるのです。感謝。

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12) 

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