2012年 4月15日 礼拝メッセージ 

「キリストに生きる祝福」
ヨハネによる福音書20章24―29節

日常的に人の生活は信じるという心の働きで成り立っています。ヨハネによる福音書の20章には、復活されたイエス様について、弟子トマスが直接出会ってないイエス様の復活を信じられないという記録があります。イエス様が復活されて一週間目の日曜日、弟子たちは家に戸を閉じて集まっていると、そこにイエス様が現れて「平安があるように」と言われ、トマスに手の傷跡とわき腹の傷跡を見せて、「自分の手を差し入れて見なさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」と言われるのでした。
「信じる者にならないで、信じる者になりなさい。」ということは、人は「信じる」ということを止める時、生きることが出来なくなることを言っているのです。人間は本来的に「信じて生きる存在」であるのです。出された食事を信頼して食べる。バスに乗る時、信頼して乗る。銀行を信頼してお金を預ける。このように生活や社会そのものが、人が信じ合って成り立っていることが分かります。信頼が裏切られる時、憎しみと対立となり混乱が生じます。希望が失われることになります。実際には、自己保存や、利益追求、欲望の暴走で人をだまし、裏切る出来事が起こります。そこに犯罪が生まれ、悲劇の連鎖が人の幸せを破壊することになります。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出します。」(ヤコブ1:15)と聖書は言っています。罪深い現実の世情の中で「信じる」ことは勇気がいるのです。信じることは勇気であり、勇気は信じることを生かす命でもあるのです。勿論、「信じる」ことのあり方は複雑ですから単純に平面化できるものではありません。単純に言えば、裏切りや偽善、不誠実のないところこそ「信じられる家庭」となり、「信じられる社会」となることになります。「信じ合える所」に「平和」が実現することになるのです。イエス様は「信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。イエス様の復活は現実的には考えられない出来事であり、実際にイエス様に出会わない限り、受け入れられないことであったのです。イエス様は言われます「見ないのに信じる人は、幸いである。」(:29)
第一に、理解できないことでも信じるときに「理解」出来る。見えない実態を信じることによって、その実態を経験することが出来るということが愛と信頼であるのです。理解して、自然の原理に基づいて実証されなければ信じないとトマスは断言しました。理性で理解出来なければ信じられないことになります。実在を証明することなしに納得しないというのです。それは、見えない、確認出来ない、証明もできないものは信じられないことになります。不思議なことに信じてはじめて理解出来、存在が明らかになることがあります。それこそ「愛」であるのです。人が生きる勇気と命となり、平和の根源である「愛」は見えないものでありますが、存在を否定することは出来ません。神様は「愛」であると聖書が言う時、また、神様を信じるときにその実在を経験するのです。言換えれば、信じることによって経験し理解するのです。人は、自分の存在の根源がどこから来たのか説明することは出来ません。全ての自然の存在についてもその形態の不思議な造形の根源はありのまま受け入れることになります。その存在と命の根源こそが創造主であり「神様」であるのです。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)
第二に、イエス様の福音は永遠の命への道筋でありました。「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ロマ6:23)トマスはイエス様が「私を信じる者は死んでも生きる」と言われていたが、教訓的な象徴で実際に死から甦られるとは信じていなかったとみえます。主が復活された日の夕方、弟子たちは敵視していた人々の弾圧を恐れて戸にはみな鍵をかけて話し合っていました。鍵はかけてあったのにイエス様がお出でになり、あれだけ疑っていたトマスに語りかけられ、「信じないものにならないで、信じる者になりなさい」と言われるのです。その時、初めて、トマスは「わたしの主、私の神」と言うのです。正に、神様が今ここに共にいて下さると告白しているのです。神様と共にいる、神様のみもといる。それが神の国であり、死を越えた永遠の今を経験しているのです。この永遠の命に生きる希望がないところでは、死は困惑と絶望、悲嘆と不安です。しかし、「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」(Ⅱテモテ1:10)今の現実は、有限の命、変化の存在、終りのある存在であるのです。しかし、永遠の命、無限、不変、不滅、確かな世界、それが神の国であるのです。キリストを信じることはその永遠の命に生かされるのです。変化し、消滅する現実の世界に生きながら、不滅の命の希望に生きる時、どのような困難や苦悩の中でもイエス様は共にいて重荷を負い、克服への道を切り開いて下さるのです。だから使徒パウロは言います。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:2-5)
第三に、イエス様はトマスに最後に言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)キリストを信じることは、キリストの言葉を信じることであり、キリストの言葉を生きることです。キリストを信じることは、キリストによって神様に愛されていることに出会うことであり、愛されている喜びに生きることです。言換えれば、罪深い自分を愛し続けて下さっていることに気づくことであり、必ず、更生する可能性を見捨てないで待ち続けて下さっている神様に出会うことであるのです。トマスは、復活された主に出会った弟子たちに、その喜びの報告を受けても信じられないでいたのです。その傷跡を見るまではそんなことを信じられないと言うのです。それは不信仰であり、イエス様を信じていても、ある意味で一緒にいるのが気まずいような状態であったのです。クリスチャンであると言いながら、未信者のような生活をしているようなものです。実際に、私たちの信仰生活でも、自分なりのいい訳をしながら、キリストの御言葉に遠い行動や言葉に生きることがあります。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7,8)信じるという聖書の言葉はピスチュオウ(πιστεύω)と言い、信頼するという意味でもあるのです。信頼は従うことでもあります。キリストを信じることはキリストの言葉を信頼することであり、従う、実践することなのです。信じていながらキリストの言葉、教えに従わないことは矛盾することになります。キリストを信じる信仰には豊かに実を結ぶ祝福の約束があるのです。そこには勝利と希望、平安と歓喜が約束されています。

 

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