2012年 4月22日 礼拝メッセージ 

「神の恵み、美しい日本」
マタイによる福音書6章25−34節

 今年は開花が遅かったせいか桜が美しい。17日から大阪の造幣局の通り抜けで知られている櫻観の解放が始まった。大川の馬毛洗い堰から下流、天満橋まで約4キロの河川敷のある公園、両岸には4800本のソメイヨシノ、山桜、里桜が植えられて満開の時は壮観である。造幣局は設立明治以来、桜の名所で知られている。築城の名手、藤堂高虎の大阪屋敷の跡地に建てられ桜が引き継がれ、今日まで改善と工夫がなされ120種、400本の様々な全国の桜が植えられている。一本一本の桜が違う、八重桜、こてまりという名の桜、しだれ桜、その間に黄緑色の控え目で美しい桜がある。それが一本では目立たない。絢爛たる桜の間にあるのが、風情を異にして綺麗である。他を引き立て、自分を輝かせる自然で妙なる調和の美である。私は十何年ぶりに多くの人に交じって「通り抜け」を歩いた。雲ひとつない青空に輝く、美しい桜がひと際美しく輝くのに見惚れたのである。「美しい。美しい」通り抜けるまで口から無意識に感嘆の声が出るのである。
「美しい」ことに人は引き付けられる。「美しい」ものに感動する。「美しい」ものに出会うと心が安らぐ。しかし、美しいものを見ながら、人によっては「美」を感じないこともある。「美」を「美」として受け止め、感動し、思いめぐらすのは人によって違うのである。或る人には美しく思うものがあるが、他の人にはそうは思えないこともある。長野のアルプスの山々に登ると感動する。自然の壮大な姿である。夕日に沈む言葉にならない自然美の日本海。「美しい」という感動。視覚から伝わる「美」の命が、心に躍動する経験である。存在の中に「美」がある。「美」とは“完全”であり“調和”、“明らかさ”であると言われてきている。造形の調和、完全な美しさが、創造主なる神様のあり方を示している。詩編には「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩19:1−5)と示している。天地森羅万象は創造主なる神様の栄光、即ち、その見えざる存在を表し、その素晴らしさ、美しさ、不思議な調和、完結性が語られている。創世記の1章31節には「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記している。創造された全てのものは“極めて良かった”のである。神様の喜び、満足、即ち、完全と調和が聡明に輝いている“美しさ”を表している。桜の美しさ、完成された美、多様の中で調和の美、超越した美、その美を生み出す創造の命の不思議。創造主なる神様を信じる者に生かされている喜び、感謝が感動となり、賛美が心から湧き上がり、リズムとなる。「大空は御手の業を示す」と告白し、賛美し、礼拝する。礼拝と賛美は神様に生かされている実感する人々の姿である。
今朝与えられているみ言葉はマタイによる福音書6章の25−34節で、「思い悩むな」という表題がつけられている。美しい創造の世界でありながら、生きるには絶えず問題がつきまとうのが現実である。悩み、迷い、混乱し、争い、傷つける生活の連続が現実であると言える。調和が失われ、明らかさが失われている。「食べること」「着ること」生きることに思い悩むことが生活のすべてを指し示している。
第一に、主の語られる「思い悩むな」(:25)という言葉は、思い悩み、悩まずにはおれない者であるのに、思い悩まないようされている自分にされている事を教えているのです。空の鳥に目を向けさせます。「空の鳥を見なさい」と注意を向けさせます。蒔かず、刈り入れもしない、しかし、自然の中で生きている。衣服のことで思い悩むのかと問われます。野の草花が可憐に咲き誇る。自ら働きもしない。紬もしない。しかしその美しさは栄華の極みと言われたソロモンの華麗さでさえ及ばないと言うのです。神様の創造のみ手の業の完全さは、人間の思いを越えた配慮がそこにあると示しているのです。その理由は、小さな鳥、小さな野草が自然の中で自生する素晴らしさを神様は配慮されている。「あなたたちは、鳥よりも、野の花よりも価値あるものではないか。」(:26)あなたは価値あるものである。なぜならば「あなたがたは神にかたどって創造された」(創1:27)のではないかと言われるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する。」(イザヤ43:4)と言われているのです。だからこそ何ものにもまさって主は、大切にし、支え、配慮し、必要を備えて下さることを自覚しなさいと勧めます。完全に創造された主は、神を見失い、調和を失い、悩む人間に、愚かさを自覚し、信仰を回復して、主を信頼することを教えられるのです。神様を信頼する時にこそ、自分の価値、その命、その存在の尊さを自覚できるのです。
第二に、「思い悩む」人に「思い悩むな」と命じられるのは、クリスチャンに対してであることを知らなければなりません。食べること、着ること、即ち、生きることに悩み、うろたえることは「異邦人の生き方である。」(:32)と言われている。「異邦人」とは真の神様とは関係のない、信仰のない人々を指している。あなたの求めているもの、必要なものは神様はご存じである(:38)と言うのです。美しい創造は、充実であり、満足でもあるのです。神様が、あなたを創造された。だからこそ「父なる神様」と呼び、祈ることが出来る。これが生活の基礎であり、祝福の土台であるのです。
 「通り抜け」を通り終わり、川岸を来た方向に向かって堂島の公園で、久しぶりに家内と語らいながら30分位川を行き来する船を眺めていた。いつの間にか数羽のハトやスズメがよって来た。ものほしげに私たちにホッ、ホッと語りかける。食べ物をねだっているなということが分かるが、あいにく何もない。今度、来た時にはあげるからねと言いながら、主が語られた「空の鳥を見よ」と言う言葉を思いめぐらした。飛び去った鳥たちを思い、鳥は、蒔かず、刈り入れもしない。どうして餌を見出し、食べるのだろうか。主は言われる「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(:26)鳥でさえそうであるのに、「価値あるあなた」は、あなた自身で道を開き、必要を見出せるようにされているのです。創造する力、造り出す能力を備えて下さっていると約束しているのです。
第三に、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(6:33)神の国と神の義を第一に求めることこそは、神様を生活の基本とし、「何が善いことで、神に喜ばれ、また、完全なことであるのかをわきまえる。」(ロマ12:2)ことにほかならないのです。主は「御国が来ますように」という祈りを教えられています。「御国」が実現することは、神様が、正に共におられることにほかならないのです。そこには「神の義」によってものごとがつながり、調和することを言っているのです。神の義を求めよと言うのは、神様の前に罪深く、神様の前に正しくないからにほかならないのです。言換えれば、罪深く、弱い人間が正しい神様の喜ばれる人として、神の御心を満たすことは如何なる努力をしても出来ないのです。だからこそ御子イエス・キリストが、人類の罪責の贖いとして十字架にかかられ、その罪の代価となって下さったのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Uコリント5:21)私たちが“義”を求めるのでなく、神様から差し出された「キリストの義」を信じ受け入れことこそが「義を求める」ことにほかならないのです。罪を贖う輝く救いの十字架となるのです。その輝きこそ、神様の完成された美であるのです。その「美」はキリストの真理の美であり、罪に勝利する命の美、闇に輝く「完全な神の愛の美」であるのです。キリストは「世の終わりまであなたがたと共いる」(マタイ28:20)と言われている。神の国はキリスト共に生きることにある。
美しい日本、桜に囲まれて創造主なる神を思い、活けるキリストと共に生き、心にキリストの美しい信仰の花を咲かせなくてはならない。美しい日本、感謝。

 

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