2012年 4月29日 礼拝メッセージ 

「キリストだけを見上げて」
マタイによる福音書17章1―13節

私たちの生活では時々、勘違いが起こることがある。勘違いは本当の事情を知らないために起こることが多い。間違って解釈して思いこむこともある。長い月日のたっているときには本当のことが分らなくなることさえある。最近、中学校の社会科の教科書に目を通す機会があった。そこにはリンカーン有名な演説の一句「人の、人民による。人民のための政治」の有名な言葉が紹介されていた。その時、「プロテスタント文化思想史」という本を読んでいた。近代思想と文化の視点で様々な現在に伝えられていることの起源を掘り起こす記事である。その一つにアブラハム・リンカーンの有名な「人民の、人民による、人民のための政治」と言う言葉は、実は、リンカーンが14世紀の英国のジョン・ウィクリフが訳した聖書の序文の引用した言葉であると指摘していた。(This Bible is for the government of the people, by the people, and for the people. )厳密にはこれはリンカーンの言葉ではないことであるが、今や、リンカーンの世界的な名言として教科書に出ているのである。厳密に言えば教科書が間違いをそのまま載せていることになる。南北戦争は奴隷解放の闘いとして教えられてはいるが、ワシントンの記念館には国家統一の功績の言葉しかない。むしろ、彼は、政権にある間、インデアンを虐殺し、居留地に閉じ込め黒人と白人は平等であると思っていなかったと言われている。時の流れの中で時として間違って情報で取り返しのつかない道を選ぶことになる。沖縄戦役の終わりごろ県民の多くは戦況に追い詰められ、「米軍は恐ろしい。凌辱し、殺される」という噂に翻ろうされて自害する道を選んだ人々の悲劇である。思い違い、誤った情報が多くの人々を混乱させ悲劇に追いやるかを痛切に思う。  
イエス様が、ペテロの告白をきっかけに教会の建設とその使命、御自分がメシヤであることを明かし、そのことを誰にも話さないように言われ、受難と復活のことを話されるのですが、ペテロは、イエス様の真意を理解できないで、そんなことがあってはならないととどめるのです。イエス様は「サタンよ引き下がれ、私を邪魔する者、神のことを思わず、人間のことを思っている。」と譴責されているのです。そして、今日の聖書の個所である17章の山上の変貌の出来事ではイエス様が示しておられる真意がまだ分からないまま的外れなことを言ってペテロは混乱するのです。フィリポ・カイサリヤでの弟子たちとの対話の6日の後、イエス様は側近の弟子たちと言われていたペテロとヤコブ、その兄弟ヨハネを高い山(ヘルモンの山の伝承がある)に連れて登られた時、突然、イエス様の姿が変わり顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れイエス様と語り合っていた。この突然の変貌に直面してペテロは驚き、いつものように思いつきで口をはさみ「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言っているうちに光り輝く雲が彼らを覆った。そうすると丁度、イエス様が受洗され、水から上がられた時と同じように(3:17)「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聴いて非常に恐れたのでした。
先ず、ペテロがイエス様の太陽のように輝く変貌の姿、モーセトエリヤと語らう姿を見て、「仮小屋を三つ立てましょう。イエス様とモーセ、エリヤのために」と言うのですが、そのとっさの言葉が何を意味するのかは説明はないのです。おそらく、敬うために、何かをしなければと衝動のためだろうか。いや、ペテロと弟子たちは太陽にように輝く光に神様の栄光、臨在、近づけない神々さの中で、恐怖心に慄き、場違いで筋違いなことを言っているのです。その一つは、モーセもエリヤも過去の人であって栄光の体を持って現れているのであるから仮小屋はいらない。その二は、モ―セとエリヤをイエス様と同等にしている。その三は、モーセとエリヤの何時までもいるようにとしていることであるのです。
この出来事から学ぶ第一のことは、イエス様がキリストであると言う証であるのです。16章でイエス様は弟子たちに「人々は、私を誰であると言っているのか」と尋ねられ、弟子たちは口々に、「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だ」と答え、ペテロがハッキリと「あなたはメシア、生ける神の子です。」と言っている。そのあとで受難についての反対するペテロををサタンと言って叱責されるのでした。ペテロはよくわかっていないのです。17章の9節以下で再び、復活の出来事が起こるまで黙秘するように言われるのです。依然ここでも律法学者の言葉、預言エリヤが先ず来ると言うことに疑問を挟むのでした。主は、すでにエリヤは来たのだといわれる。
イスラエルを回復する、イスラレルの独立と支配は、モーセがその言葉(律法)と預言者、メシヤの来臨の先駆者としてエリヤが来ると約束されている(マラキ4:5)とある。繰り返しイエス様はメシヤであることを他言するなと言われている。それはイスラエルを復興する預言者であり、メシヤであると言う触れ込みで弾圧されて、すでに二十万人以上が犠牲になっていたと言うのです。おそらく、弟子たちの不安を解消するために栄光の神の臨在、イエス様が神であられる現実に出会ったのでした。イエス様は預言者でもなく神そのお方、キリストとしてお出でに暗るという証の確信の経験であったのです。
ペテロとヨハネが「イエス様以外には、救いは得られない。私たちが救われる名は、天下にこの名(イエス様の名)以外には、人間には当てられていない。」(使徒4:12)と確信を持って告白するに至るのです。今変貌の山での出来事こそは、イエス様以外に真理の道、命の道、救いの道はないと言うことを示しているのです。「イエスのほか何も見えなかった」のでした。(マルコ9:8)真実のイエス様の道を見極めるのは、イエス様だけを見上げ、イエス様に従い、イエス様のみ言葉にのみ進むことが信仰の勝利の道であることを教えているのです。(ヘブル12:2)
第二に、山上の変貌の経験は、真実に神様との出会う県県であるのです。ペテロは16章で分らないままイエス様の厳しいせ譴責を受けました。変貌の山ではひれ伏して恐れおののいたのでした。神様の臨在に出会う、顔が太陽のように光る、反射の光でなく、光、神様の臨在の光輝であるのです。たび重なる失敗に未熟な、汚れた、罪深さをひれ伏す以外どうすることもできない自分に、その結果、サタンと言われた苦悩を思い悩んだことと思われるのです。しかし、イエス様は近づいて手で触れ言われた「起きなさい。恐れることはない。」と。主は、優しいまなざしで弟子に語りかけられるのでした。神様は罪に悩み、失敗を恐れ、過ちを苦悩する弟子に「恐れるな・・私はいるではないか」あなたのために十字架の道を行くのである。復活の勝利を、永遠の命を備えるのである。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)弟子たちは福音のために試練と受難の道をイエス様を見上げて歩んだのです。
第三に、イエス様は言われます。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」(17:9)ここで「見る」と言うことは、単に見るのでなく「幻を見る」と言う語意があるのです。言換えれば「誰にも(見た)幻を話してはならない」と言うことになります。「幻」は現実でなく、幻滅、幻想と言う言葉から来る響きは消極的で、否定的であるのです。しかし、英語っでは幻は「ビジョン」です。日常的に「ビジョンを持って進もう」と言う時には、そのビジョンは実現する可能性にあるのです。積極的なとらえ方です。変貌の出来事は超越的な兄計であるのですが、すべてを越えて実在し、働きかけ、働いて下さる実在のお方として光、即ち、命の根源としての神そのお方が、旧約聖書に言われているモーセの約束、その御心の預言者エリヤの証に言われているメシヤとしてイエス様を証ししているのです。神様の真実と事実をイエス様が現わされるというビジョンであるのです。変貌に出会った経験、神様のビジョン御心の真実を確信し、実現の時を待つようと言う言葉であるのです。イエスのビジョンを確信し、ビジョンの実現を確信ししようではないか。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」  (ヘブル13:8)
 

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