2012年 5月6日 礼拝メッセージ 

「神の国の経済と祝福」
ルカによる福音書17章11‐19節

英語で「プリーズ セイ グレイス」、この言葉はそのまま訳せば「どうか恵みを言って下さい」ですが、グレイスは「神様の恵みを感謝する」であり、「食事の感謝の祈りをして下さい」…「食事の祈りをして下さい」と言う意味になります。創造主なる神様は、イエス様にあって二つ
の基本的な心のあり方を教えておられます。その一つは、神様が創造主であり、すべての存在と命の根源であることを自覚できることです。そこから、人間の有限を自覚でき、「謙遜」を根本から身につけることになります。そして、生かされている私を見出すのです。二つ目は生かされている「感謝」が溢れることです。
「謙遜」と「感謝」こそは、祝福の根となるものです。人は、親の愛、家族の助け、そして身近な人々の交わりの中で育まれ、成長し、自立して行くものです。感謝する心が人と人との関係を豊かにしていくと言えます。
アメリカやヨーロッパの国々では大抵、飲食店やタクシーに乗っても、空港などに行くバスの荷物の積みお下ろしをする人にも「チップ」を渡す習慣です。それはあくまで気持ちであるのです。義務ではない。給仕をしてくれる人への感謝です。日本では無形の行為への代償は考えないという習慣になっています。法律相談とか、身の上相談とか、カウセリングやコンサルタントなども最近では職業化してきているが、無報酬が多いようです。
ルカによる福音書には10人の「思い皮膚病」の人々が、イエス様に癒される記録があります。おそらくはガリラヤ地方から南下してエルサレム行こうとされる時のことです。ガリラヤとサマリヤの間にある村を通りかかられた。10人の“重い皮膚病”とありますが、口語訳では“らい病人”と訳されており、不治の病で、人々に恐れられていた恐ろしい伝染性の皮膚病であったのであろう。人々と一緒に住むことの赦されないハンセン氏病のようで、ガリラヤとサマリヤは犬猿の関係であったのでその村境に小さな避難の村が、お互いの憎悪の感情を抜きに思いやりながら住んでいたと言えます。10人のうちにはサマリヤ人とガリラヤ人がいたと考えられる。彼らはイエス様を出迎え、遠いところから声を合わせて力いっぱい叫んだ。「私たちを憐れんで下さい」と。当時の律法ではハンセン氏病の人たちは健康な人に近づいてはならないと決められていた。村里に出てきたら「私はらい病です」と叫ばないと「石で打たれる」ことになっているのです。10人のハンセン氏病の人たちは遠くの方で立ち止まって叫んだ。人生に絶望し、生きる意欲を失い、生きたいという思いだけに支えられていた。イエス様は直ちに「祭司たちのところに行って身体を見せなさい」と言われた。彼らは現実にはまだ病気の症状であるただれた皮膚、崩れた肉体の症状を見て、決して直っているとは思えない。なぜなら、律法ではハンセン氏病が治ったら、祭司に最終判断してもらって「全快」の証明をもらって快癒したことになっていた。(レビ13:、14:)イエス様が「祭司たちのところへ行け」と言われたのは「全快している」からである。しかし現実はまだ悪い状態である。しかし、イエス様の「行け」と言われた言葉が「全快」している意味であると10人は信じたのでした。祭司はおそらくエルサレムにしかいなかったと思われるところから、長い道のりを歩き始めたと言える。歩いているうちに、体が爽快になり、病んでいるところを見ると生まれた赤子のような身体になっているのに気づくのでした。おそらく歓声を挙げて喜んだに違いないのです。その一人は、大声で神様を賛美しながら慌てて元来た道に帰り、イエス様を見て感謝するのでした。
イエス様は「この外国人のほかには、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」と問われた。「あなたの信仰があなたを救った。」と言われるのでした。
この出来事から学ぶ第一のことは、同じ恵みを経験しながら10人の内、一人だけが立ち帰り先ずイエス様に報告しているのです。絶望的な病気を癒される、解放される、生活を回復されるのでした。奇跡はあり得ないことが起こることです。人間の力を越えた力が働くのです。その変化に驚き、感激するのです。それは神様の恵みであるのです。よく考えると、何も変化がない日常の中で生きていること、不思議な自然の営みこそが人の思いを越えた奇跡と言えるのです。天地創造、自然の仕組みを創造された神様の恵みです。神様の奇跡。恵みを日々に頂いていることに気づいているでしょうか。ハンセン氏病が治る奇跡、私が生きている事実をイエス・キリストを信じる信仰によって実感し、体験するのです。神様の恵みに出会い、経験しても、神様のもとへ帰り、その祝福、めぐみを自覚しないで過ごす人々もいるのです。イエス様は、帰って来た人を「外国人」と言われます。サマリヤ人はもともとユダヤ人ではあったのですが、南北朝時代の政変でユダヤ人と分れて差別されるのです。しかし、10人の内にはガリラヤ人、即ちユダヤ人もいたのです。ユダヤ人は自分たちこそ正統的な神の民と思っているのに一人も帰らなかった。これはイエス様の恵みは如何なる人にも同じ機会が与えられているということであるのです。イエス様を信じる信仰が、真実に恵みを自覚できるようにされるのです。信仰が生み出す感謝の心は神様を信じる人の証であるのです。
第二に、イエス様を信じることは、イエス様の喜びに生きることにほかなりません。命も人生も、神様の御心の中で備えられ、生かされているのです。キリストを信じることはキリストのみ言葉に生かされ、その偉大な創造の知恵と力、愛の不思議な恵みを賛美することです。主を崇め、賛美することこそ礼拝であるのです、だからこそ使徒パウロの勧めるごとく「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 」(ロマ12:1)これは義務ではなく、キリストを信じる人の恵みの証であるのです。感謝し、賛美し、礼拝する生活、人生こそは“神に喜ばれる”人生であるのです。
第三に、人の命、人生は神様に与えられているのであって、聖書によれば命を自分で捨てることは赦されないことです。自殺は最大の罪であるのです。生きているということは神様の配慮の中で生きているのですから、生涯を粗末にすることは赦されないことであるのです。健康が守られ、生かされているから働きお金を得ることが出来るのです。お金も神様の御心によっていかされることになります。収入も神様の栄光を表し、喜ばれ、神様の御心に沿って用いることになるのです。それは、人間が、堅実にして、幸せに生きるためです。神様の働きのために献金することは、あくまで信仰によって生み出された神様への愛の応答であり、感謝であることが原則なのです。信仰も感謝もない献金は無意味になります。信仰による感謝のない人は献金をする意味がないのです。
感謝があればこそ献金が喜ばれるのです。
アブラハムがロトの親族を奪還し、サレムの王、祭司メルキゼデクがアブラハムを祝福した時、彼は持ち物全部の十分の一を贈ったという。この伝承によってやがて「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。」(レビ27:30、民18:26)という律法となるのです。新約ではヘブル書7章でメルキゼデクひとしい方としてイエス・キリストが、その十一を受けるに相応しい方であると言い、正に、永遠の祭司として、「この方(キリスト)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる。」(ヘブル7:25)と言うのです。神の民はキリストの福音のためにその感謝の十分の一を捧げるのです。イエス・キリストの使命の働き、神の御国の福音を伝え、神の愛を伝える使命に預かるのです。あくまでもこれは信仰による感謝であるのです。キリストに救われ、神の愛に生かされる喜びの目標であるのです。
重い皮膚病を奇跡的に癒された10人の内、1人がキリストのもとに帰り、感謝したのです。同じ、神様の恵みと祝福を受けても感謝で出来ない人でなく、ひれ伏し、礼拝し、感謝できる人になろうではありませんか。


 

 ページのトップへ
  
2012年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ