2012年 5月13日 母の日メッセージ 

「母の愛と家庭の幸せ」
エフェソの信徒への手紙6章1―2節

 「母の日」は現在では全世界の国々で色々な日に祝われているようです。日本では5月の第二日曜日が、「母の日」として祝われています。それぞれの国ではその発祥に色々な伝承があるようですが、世界に影響を与え有名なのは、アメリカのマッサチューセッツ州ウエブスターのメソジスト教会での始まりでした。
アンナ・ジャーヴィスさんは教会で日曜学校の先生をしていましたが、亡きお母さんの二年目、1907年5月12日に追悼記念会の時、母への感謝を表し白いカーネーションを飾り、人々に配ったことがきっかけとなり、日曜学校では「母の日」として母への感謝を表すようになりました。やがてこれを知った百貨店王として知られているジョン・ワナメーカーが5月の第二日曜日に店頭で盛大な「母の日」記念会を開催し、全国に報道されて各地に広がるようになりました。そして日本では1923年に最初の「母の日」が祝われたと言われています。
アンナ・ジャーヴィスさんのお母さんクララさんは牧師と結婚して、日曜学校の先生をしながら、1858年に「母の仕事の日クラブ」(Mothers’ Day Work Club)を提唱して、病気や苦しんでいる人を助けるための募金をしたり、病気予防のための食品検査や公衆衛生の活動をする社会運動家として活躍しました。彼女は日曜学校で26年間も教え、クララはある時、モーセの十戒の「第5戒」“父母を敬え”について語り、特に、心から母に感謝する方法があればよいと語ったことが、娘のアンナの心に残り「母の日」の発祥のきっかけとなったのです。
 現在の日本の深刻な社会問題は「絶縁社会」と言われる現象です。単に、親族がいない孤独な人々を言うのでなく、「絆」を失った社会。社会は、「人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体」が一つの形を持つことを言います。絶縁とは社会の崩壊を意味するのです。聖書は人が共に生きる絆としてモーセを通して約束を与えられています。人間にとって基本的な「十の戒め」です。その神様の真意は「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト20:6)ことであり、戒めは約束の絆であり、祝福を生む基本であるのです。民主的社会は人権を基本とした社会であるのですが、一人の人権を尊ぶと共に、互いに、生きる為には人権を譲り合うことなしには真実の幸せはあり得ないのです。他を顧みず、自己願望と欲望だけを主張しては「絆」は築けないのです。神様の願い、真実に人が人として幸せに生きる基本を見失う所には祝福は約束されません。十戒は祝福の道であり、約束であると言えるのです。第一の戒めから第四の戒めまでは神様と人とのあり方を教え、守ることを示しています。この神様を信じ、愛している関係のもとで第五より第十の戒めまでが、人が、人と共に生きる絆の基本的な要を表しているのです。言換えれば、家族の絆、地域社会、国家の成り立つ基礎的な「絆」であるのです。即ち、人と人との「絆」の最も基礎となる要が、第一の戒めであるのです。使徒パウロはこの第五の戒め「父と母を敬え」を口語訳では「これが第一の戒めであって」(エペソ6:2)と言い、共同訳では「これは約束を伴う最初の掟です。」と訳しています。人間が共に生きる基礎的な戒めであり、約束であるのです。
パウロは出エジプト記20章の12節の言葉を「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。という言葉で「両親を敬う」ことへの約束の実を示しています。「地上に長く、幸福に生きる」ことは「安全と安心」を約束しているのです。
 今日は、「母の日」です。私たちの命は、両親から受け継いでいます。母から生まれない人はいないのです。母の「命」,母の「体」、そして母の「愛」で育てられたのです。神様を信じる人には、「父母を敬う」ことこそが最も重要な人の道であるのです。
 第一に、エフェソの信徒への手紙6章1節に「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです」とあります。口語訳では「主にあって」と訳しています。この言葉は原語では単に「έν κυρίω」(in Christ)であるのです。エン(έν)は神様が人の内に満ちていることを表したり、神様と人との間の内的結びつきに用いられる時があります。「主に結ばれている」という表現は「キリストを信じている」「キリストに従って生きている」ということになります。正に「結ばれている」のです。クリスチャンは「主にあって“両親”に従う」ことになるのです。「敬う」ことと「従う」こととは違うのです。両親が、たとえ神様を信じていなくてもどうであっても、両親が不道徳であっても、道理が通らず、暴力や理由の通らない時でも、親は親として敬うのが主にある人のなすことであるのです。しかし、主にあって結ばれ、信じている人は、主に従っても、主に従わない親には従いえないのです。何故ならば、主を信頼し、主に従う時に祝福の約束が実を結ぶことを知っているのです。最大の親孝行は親が、キリストを信じ、永遠の命を受け入れ、神様の祝福に共に預かることが出来るようになることです。
 第二に、人は、父と母なくして生まれてこなかった。特に、母はお腹に子を宿し、自分の命を分け合って育てる。出産の苦しみは果てしなく辛いものであると言う。その辛さを通さなければ人は人となりえない。エデンの園でアダムとエバの神様への不従順への回想がその始まりであると言う。人間が神様の約束を疑うこと、罪の悲しみと現実を回想することになったと言うのです。幸せな人の存在が見事に破られる苦しみを悲しまれる神様の姿を投影しているのではないだろうか。出産する、泣き声を聞く母親の喜びは、出産の苦しみをかき消すのであろう。人の生涯の幸せの代償として痛みが、その愛が実を結ぶ時、そこに言葉では言い表せない喜びが経験できるのが母の現実です。私が、生まれるために母が苦しむのです。子を生かすために苦しむ母、キリストが十字架で罪ある人を新しく生まれ変わらせ神の子として生かして下さる、あの犠牲である。この出産の神秘をキリストに出会って深く知り、神様の御心に生かされている自分を知ることが出来、母を思いつつ感謝が出来るのです。キリストを信じ、父なる神様の無限の愛と恵みを知り、掛替えのない母の慈愛に感動し感謝するのです。
 第三に、母の愛、思いやり、子を思う深い愛情が、子を育てるのです。「母の愛は神の愛に最も似ている」とカルヴァンは言いました。神の愛は無私の愛です。アガペーは「犠牲の愛」、金銭では計算できない愛です。愛には忍耐がいります。広い心の寛容であるのです。疲れた心を癒やす愛です。愛は勇気です。お母さんは易しく、強い心で、粘り強く家族を支えます。この母がいるから家庭は幸せなのです。現実は、お母さんに不満があるかもしれません。だからこそ「父母を敬え」主にあって両親に従えと言う言葉に希望が持てるのです。主に結ばれる。主にあって、主と共に生きる、そこに神様の約束の平安と祝福が実るのです。
主にあって、お母さんありがとう。いつまでも元気で。また、天国のお母さんを思い、今ある自分の命の尊さと感謝をささげよう。

 

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