2012年 5月20日 礼拝メッセージ 

「恵み溢れる福音の生涯」
詩編46篇2−4節

 イスラエルの諺に「人生の最大の幸せは良き教師と出会うことである」と言う言葉があります。“幸せ”は、人それぞれ思うことは違うのです。しかし、使徒パウロが言うように「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4:11−12)と言う言葉、特に「、いついかなる場合にも対処する秘訣」こそ“幸せ”の根源的な鍵であるのです。如何なる時、如何なることにも“対処する秘訣”があれば可能性の道が開けてきます。そこで、はっきりと言っています「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(:13)と。この道を示し、助け、教え、導かれる「良き教師」に出会うことこそ最大の“幸せ”であるのです。
 去る、5月11日に私の恩師である印具徹先生が101歳で召天された。先生は、私にとって正に「良き教師」でした。私は「幸せ」であると言うことが出来るのです。101歳という長寿を喜ぶと共に101年の長き生涯を生き、学者として、教育者、牧師として業績を残された足跡は、奇跡であるとしか言えない生涯であったのです。私が、お世話になった47年前ごろは関西学院神学部では批評的で、合理主義的な聖書の勉強の流れで学問と実践が遊離している傾向がありました。それでも古い良き時代のメソジスト(几帳面派)の伝統を持って教会に奉仕する牧師の働きを語り教えられたものでした。受け持ちの藤井孝夫先生は戦中の田舎での伝道で弾圧され教会がちりぢりになって一人の人を前に礼拝を持ったこと、生活苦と戦ったことなどを通して、「キリスト教は復活の信仰だから必ず、よみがえるよ。どんな時にも希望を、持ちなさい」と言われた。この言葉は今でも私にとって大きな力となっているのです。授業で学んだことより、授業の間に語られる体験に基づく教えは心に深く残るものです。
 印具先生は、「愛知一如」を学びの基礎とし、終局的な真理としておられたと言えます。愛のない知は真実の知でなく、知のない愛は真実の愛でないと言うものでした。そしてその基盤は「信仰」でありました。先生は真実という言葉をよくつかわれたのです。「真実」のない「信仰」はなく、「真実」の「信仰」こそ、生きた信仰であり、すべてに命を与えるものであるのです。先生はプロテスタントの真理を学ぶために宗教改革者ルターの研究を目指されますが、ルターの研究はルターの生きた中世を学ぶ必要を教えられ、その真理を求めてボナベントウラ、トマス・アキナスに至って、「アンセルムス」に辿り、その学的根拠である「知解せんためにわれ信ず」という思想に信仰の出発点に至られたのです。私は、この言葉に基づく教えを深く心に留めることになりました。理解して信じるのでなく、信じて全てが解るのです。「神を知らぬ者は心に言う、 『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」(詩53:2)信仰は、人間の限界を認めて、命と存在の根源者である神様を受け入れることにあるのです。言換えれば人は「謙遜」にならなければ、神様を信じることは出来ないと言えるのです。謙遜に基づく信仰こそは、神様に「愛されている自分」を自覚できることになるのです。印具先生は先ず「信仰」、そして「謙遜」、「真実」、「愛」、「知識」のあり方を説かれました。
 先生はある時、授業で「牧師は、『うちの先生は神学はよく勉強されるが、愛がない』と言われるよりも『うちの先生は神学のことはあまり話されないが、心の温かい愛の人である』と言われるようにしなさいよ」と言われた。難しい神学の授業の間に語られる言葉が、今も、私の心のなかで奉仕の土台となっているのです。
 先生は、唐津の医者の息子で、厳しく、厳格なお父さんに親しみが持てず、親の意に反して数学者の道を進み、東京の一橋大学に進まれました。入学して間もなく結核で倒れ、余儀なく休学する。日に日に重くなる病気の中で、再び、回復の見込みがないような状態になり、絶望的な日々を送られる。そのような中、お母さんが町で買い物の時、気安く挨拶する娘さんがいると言うのです。その人は、近くの幼稚園の保母さんでクリスチャンであったのです。お母さんに息子さんのことを聞いて、お見舞いするようになるのです。この加藤さんという保母さんに祈りと聖書の導きを受けて印具先生はキリストを知り、信じるようになるのです。そこで死を待つような状態の中で不思議なことに病が快方に向かうのでした。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ5:15)癒やされたのです。その苦しみの中でキリストの愛に出会い、死から救い、癒やして下さったキリストの愛を伝える人になろうと決心して、関西学院大学の神学部に入学されるのです。しかし、暫くして、またも病気が再発し休学を繰りかえしながらも守られて卒業されて、愛媛県卯町の教会に赴任されるのです。やがて太平洋戦争が迫り、宗教維持法で教会は統制され、神学校が東西2校許されて西が関西学院になります。そこで印具先生は優秀な成績が認められて教授に迎えられることになり、卯町の教会の人々に惜しまれながら関西に出ることになったのです。しかし、政府の方針が変わり西部神学校は、東部神学校一校になることになり、教授の職はなくなり、お世話下さった先生の好意で広島女学院で教えることになるのです。教えながら、今まで持っていたルターの研究をさらに進めようと願い、先生は尊敬されていた橋本鑑と言う学者に相談されるとルターの研究は中世を研究することが大事であると言うことから、中世思想研究で日本の代表的になっていた広島大学の哲学科に入学し、学ばれるのでした。いよいよ戦中になり、病弱な先生は兵役を免れて研究に打ち込み、博士学位記を授与されます。戦争末期に「神の国と国家」という論文を書かれたのが憲兵の検閲にかかり、迫害を受けました。丁度、その時、県立広島医学専門校(現在の広島大学医学部)が設立されるので印具先生は倫理学の教授に就任が決まっていたのです。しかし、憲兵隊の批判的通告で道が閉ざされることになるのです。そして、先生は広島女学院の教授として終戦を迎えられるのです。あの忌まわしい“原爆”の洗礼を受け、女学校の生徒達と火の海にのがれる道を求めながら九死に一生を得て助かったのです。広島を逃れ、奥さんと子供さんのおられる卯町に帰られたのでしたが、原爆症で意識はもうろうとし、死線をさまようようになるのでした。頭の毛は日に日に抜け、顔はやつれ、みる影もない重体になっているのです。先生は、「主は、我らと共におられる。インマヌエル アーメン」称名を唱えながら、主、共にいます、と声も出ない声を絞るようにして唱え続けられたのです。奇跡が起こりました。先生は、やがて快方に向かわれたのです。奥さんの手厚い看護は言うまでもありません。先生は回復し、再び、関西学院大学の神学部再興のために先生は呼び出されました。その時、一歳ちょっとの息子さんが小児麻痺にかかり歩行もできない、重症になっていました。しかし、先生ご夫妻は信仰を持って祈りました。妻子を残して関西に出かけて帰ってみると息子さんはよちよちですが、歩くようになって来たのです。なお、熱心に祈られ、完全に健康を取り戻したのです。奇跡がここでも表れたのです。
先生は自伝の中で「私は、かねがね、奇跡を信じていた。奇跡は、超自然的と思われる不思議な出来事であって、いわゆる科学的・合理的立場で解釈されるべき問題でなく、また、そのような立場で奇跡を批判してはならないのである。奇跡は、テルトリアヌスが述べるように―彼の立場は『不可能なるがゆえにわれ信ず』という命題で表現されうるとよく言われている。実際、彼が、このような立場で述べるように―不可能であるからこそ、あるいは、『不条理なるゆえに、われ信ず』と言われるごとく、不条理であるからこそ、むしろ、可能であり、また、確実であるとして信じられるのである。しかし、もし、奇跡が受け入れられるためには、神の全能を信じる、深い、また。純な信仰が問題になると言うことは言うまでもない。ところで、恩寵によって深く純な信仰を与えられていたアンセルムスの生涯には多くの奇跡がみられるのであるが、私は、それをすべて信じている。」と言っておられる。先生は、敬虔で、謙遜、愛にあふれ、知性に溢れた学者であり、教育者、伝道者、真実の信仰と愛の牧師でありました。先生の愛唱歌「神はわがやぐら、わが強き盾。苦しめるときの、近きたすけぞ、……」(詩篇46:)を歌いながら、とめどもなく涙が出てきた。それは深く、優しい先生への感謝の喜びの涙でした。
先生は学園紛争の後、母校の広島大学大学院哲学科中世思想研究科の主任教授として赴任された。生涯、愛と和解を、そして被爆者として「どのような理由があっても戦争はしてはならない」と平和の使者として関西被爆者協会会長としても平和を叫び続けられた。
私は、キリストに導かれ、印具先生によってキリストの真実の愛と知を教えられた。真実に主を愛し、真実に主に従い、主を宣べ伝えていこうと祈っている。ルターが作り、愛し、印具先生の愛された詩編46篇の賛美を歌いながら・・・。
先生の生涯は「称名」の生涯であった。
「神われらと共におられる・・・インマヌエル アーメン」


 

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