2012年 6月3日 礼拝メッセージ 

「主に導かれて歩む」
ガラテヤの信徒への手紙5章16−26節

キリストを信じる信仰、キリスト教を「言葉の信仰」「愛の信仰」「交わりの信仰」などと一口で表すことがありますが、その一つ一つがキリスト信仰の内容を表しています。その信仰の結果を表現すれば「喜びの信仰」であると言えます。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペテロ1:8−9)キリストを信じる信仰はその「実りとして魂の救い」を得ています。その経験は魂の平安、確信と希望に裏付けられているところに充実した、言葉では表現できないほどの「喜び」が満ち溢れるのです。使徒パウロは「わたしが言いたいのはこういうことです。『霊の導きに従って歩みなさい』。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)と勧めています。肉とは、単なる人の体を言っているのではなく、肉体を持っている人間の生きようとする意欲や欲望であり、それが“罪に染まった人間の実態”となることを表しているのです。“肉の業”(5:19)は明白であり“姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他の類”であると指摘しているのです。(5:19−21)言いかえれば物質的な“肉”と言うよりは、本来的に人間に内在する“罪業”を言っているのです。ですから肉は“罪の思い”という意味であるのです。(ロマ8:6、7、8)“肉の思いの結実”に対して、「霊の結ぶ実」はどのように示されているのかと言いますと「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」とあります。
私たちは、キリストを信じているが、実際には「見ていない」し、見たことがないのです。しかし、ヨハネによる福音書でイエス様は「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハネ14:16−20)と言っておられるのです。このお言葉は「霊に導かれ、霊に従って生きる、霊の導きに従って前進する」ように勧められているのです。(ガラテヤ5:18、25)イエス様を見てはいない、しかし、イエス様を信じることによってイエスの言葉である聖書に従って生きている。それは真理の霊、即ち、聖霊は信じる人の内におられるイエス様が共にいて下さる経験を約束しているのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と言われました。真理は教えであり、命に至る道、救いの道であるのです。人を救いに導く、真理の霊、命に至る道、イエス・キリストそのお方が、信じる人の内にあって神の命に生かして下さる、それが「聖霊に導かれて歩む」ということにほかならないのです。ですから「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19−20)と言うのがクリスチャンの姿であるのです。だからこそ「主イエスに導かれて生きる」ことこそは「霊に導かれて生きる」ことであり、聖霊によって生かされることはキリストの御心に従って生きることなのです。
第一に、聖霊の導き従って生きることは、聖霊の御心を聴くことから始まります。傾聴と応答によって主の御心が示され、確信と望みとなるのです。それこそは「祈り」なのです。祈りはイエス様を信じている証しでもあります。祈りの生活を抜きにして「霊に導かれる生活」はあり得ないのです。キリストを信じているということは「祈る」人であることです。祈りによってイエス様と実質的に交わり、御心を知り、御心を学び、導きに従う時に聖霊はイエスの命として生活と人格の礎となって下さるのです。祈りこそはキリストが約束される聖霊の実を結ぶ命であるのです。信仰が生きている時、そこには命にあふれる神様との霊的交流が実を結ぶのです。
第二に、実を結ぶ信仰の祈りは、「喜び」として経験されます。「主に導かれる歩み」は「喜び」を結ぶ実であるのです。喜びや感動は、人を躍動させ、充実させます。キリストに出会い、魂の平安を得、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている」経験に導かれているのです。人は本質的に喜びを経験するとその喜びを表そうとします。人々にその感動を伝え、共有することによって感動の輪を広げるのです。広げさせられると言っていいのです。喜びは人を変えるのです。喜びは人に意欲を与えます。喜びを繰り返し求めるようになります。
阪神の試合を見に行き、ひいきの阪神が勝ち、ファンの新井が逆転ホームランを打ったとします。ファンであれば熱狂的に歓喜するのです。帰りに電車に乗り、見ず知らずの人にもその興奮を語るのです。そしてファンは共鳴して歓声を挙げることになるのです。まさにファンは喜びを人々に知ってほしくなるのです。感動は再現され、広げられ、拡大されるのです。キリストに出会う「喜び」は、その経験を語り、伝えたくなるのです。「主に導かれて歩む」ことこそ「聖霊の導きに従って生きる」ことであり、主を信じる人に約束される聖霊の実を結ぶことになるのです。霊的な命の実を結ぶことは日ごとに主の臨在を経験し、活ける主が如何なる時も如何なるところでも共にいて下さる経験であるのです。生きた信仰とは活ける主の臨在、主の霊、聖霊が心と思いを支え導いて下さることであるのです。聖霊の臨在の交わりこそ、祈りの充実した活きた信仰の証であるのです。種をまいた人にとってその収穫の喜びはなにものにも代えがたい喜びであるのです。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩126:5,6)
第三に、「聖霊に導きに従う」ことは、聖霊の御心に歩むということです。その「喜び」は感動であり、人の心を支配する情緒的な充実感であると共に、正に、活ける主の御心を自覚し、理解し、悟ることでもあるのです。「主にある喜び」はその悟りの内に生きることになります。主の出会い、主の言葉、その福音、「十字架の言葉」によって生かされる「喜び」であるのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントT1:18)だからこそキリストの言葉に力があり、その力こそは、「主に導かれる」に約束される「喜び」の源泉、「力」、「命」であるのです。キリストの言葉が、根源的な霊的生命なのです。「聖霊に導かれる」と、主のみ言葉、主の福音によって歩むことになり、日々、神の言葉、聖書に親しみ、聖書に従うことによって、聖霊は、あらゆる道に御心を示し、導き、主と共に歩む実態を経験し、その実を結ぶことになるのです。
第四に、「聖霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従って前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)と言うお言葉が示すように、聖霊に従って生きることから、前進することを勧めるのです。生きることを静的な現状を表しているのです。同じ所で満足するのでなく、日々、実が育ち、実が結ぶ喜びの実が結ばれる「成長と拡大と充実の実を結ぶ」ことを目指し、求めるのです。その実には、二つの方向があることを自覚する必要があります。その一つは、先ず、一人一人の自ら結ぶ実、品性であるのです。肉の業を克服し、霊の実を結ぶ祈りとみ言葉による霊性であるのです。詩編の一篇にその情景が美しく、力強く描かれています。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩1:2−3)生活の繁栄と祝福は、聖霊の実、神様を畏れる霊性から、敬虔に導かれ、愛と喜び、平和と寛容、親切と誠実、柔和と節制を裏付けとして実を結びます。そしてその祝福こそは、神様の恵みとして人々を救いの道へと導くことになります。「聖霊に導かれる」生涯は、神様の最高の恵みの道、福音、十字架を通って永遠の実の地へ導く道を伝え、人々に神様の愛と恵みの道を伝え、実を結ぶことにあります。イエス・キリストに従い、神様の愛と恵みが実ることを祈ろうではありませんか。「聖霊に導きに従い、聖霊の実を結ぶ」ことの究極的な実は一人でも多くの人々がキリストに導かれることにあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」        (ヨハネ15:16−17)

 

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