2012年 6月10日 礼拝メッセージ 

「キリストの言葉に生きる」
使徒言行録4章1―31節

ぺンテコステの日に待ち望んでいた弟子たちに聖霊が注がれて大きな変化が生じました。イエス様が十字架に架けられると言う結果に終わり、弟子たちは不安と恐怖でおののいていました。しかし、生前イエス様が、「死んでも生きる。私は、甦えりであり命である。」と言われていたことが実際に起こり、弟子たちに直接、現れて数々に教えを語り、この出来事の真意を伝えられたのでした。そして「都に留まり、聖霊を待ち望みなさい。聖霊が降る時には、私が教え、言っていたことの真意が分る。」と言われるのでした。そして「“力を受ける”。あなたがたは全世界に出て行って証人となり、(使1:8)神の国を世界にのべ伝えるようになる。(マルコ16:20、マタイ28:19,20)と諭されるのでした。弟子たちは実際にエルサレムの二階座敷で祈っているとペンテコステに日に聖霊に満たされる経験をするのです。この経験を通して弟子たちはイエス様が言われていた「聖霊が降る時、力を受ける」と言う「力」を受けるのです。この「力」こそ、「証人」の経験であったのです。イエス様が生ける神、キリスト救い主であることを確信したのです。十字架の出来事が全ての人の罪の赦しで得あり、罪業の深い人間にとって赦される唯一の道はキリストの贖いを信じることにあり、事実、キリストが甦られた出来事が死を克服し、永遠の神の御国に至る道であることを経験的に確信したのでした。
それは、何にも代えがたい恵みであり、ゆるぎない確信となるのでした。キリストにこそ救いがあり「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使4:12)と宣言するのでした。使徒言行録の3章には神殿の「美わしの門」の前に生まれながらの足の不自由な男の人が物乞いをしていたのです。そこをペトロとヨハネが通り過ぎる時、その足萎えの男が物乞いをするので、「私には金銀はないが、持っているのをあげよう。イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい。」と言って手を取って立ちあがらせると、足やくるぶしがしっかりして歩きまわり、喜びのあまり踊り回るのでした。人々は何事が起ったのであろうと集まってきました。いつも門前にいる物乞いのいざりの男であることを見て群衆は驚くのです。そこでペトロは人々に向かってことの成り行きを話すのです。確信に満ちて「イエスがキリストであり」キリストが癒して下さったのであり、このキリストこそ罪の許しを十字架で成し遂げられ、復活されて永遠の命の希望である。罪を悔い改めて立ち帰りなさい」と勧めるのでした。(使徒3:12-26)その結果,男だけで五千人になったと言うのです。弟子たちは恐怖と不安でうろたえていたのですが、「聖霊の力」は彼らを完全に変えてしまったのです。
第一に、「聖霊の力」は、イエス様が活けるキリストであり、かルバリーの丘で十字架に架かり全ての人のために贖いとなられ、単なる死で終わることなく、三日目に甦り、事実、永遠の命の約束となられたことを経験させて下さる力であるのです。力でありそれは命であるのです。この出来事の中に「神の御心」が示され、いわゆる理論や、教えでなく、歴史の中で事実、神様の愛と恵みが示されていることを信じ、確信させる命、力こそが聖霊敬虔であり、聖霊の力であるのです。言換えればイエス・キリストの出来事が「言葉」として伝えられるのでなく、イエス様が弟子たちに語り、導かれたのと同じように語り、導かれる経験こそが「聖霊の力」であり働きであるのです。そこには「喜び」があります。キリストに出会った確信。キリストによって語られた喜び、キリストの言葉に生きる無為の希望があるのです。その救いの「喜び」は何ものにも代えがたいものとなり、「キリストの言葉」に生きる「喜び」が命となり、希望となり、生活のすべてになるのです。
第二に、信仰の確信は「わたしたちの救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と言うのであったのです。聖霊の力に生かされることは具体的にはキリストの言葉に生きることであるのです。「救われべき名」救いに導いてくれる方、即ち、「道」はイエス・キリスト以外にないと確信させられる経験は聖霊の力によって初めて可能であるのです。どのような試練や困難の中にあっても「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使4:19,20)権力者の宣教の禁止命令に対して毅然とした信仰の姿勢を貫く弟子たちの姿であるのです。ぶれない信仰を証ししているのです。「聖霊を受ける時、力を受けてわたしの“証人”となる」(使1:8)“証人”は原語でマルトウス(μάρτυς)と言い、証人であるのですが「事実の証明者」と言う意味であるのです。イエス・キリストの出来事が、正に、正真正銘、事実であることを立証するこのできる人を言います。割引も妥協もしない、イエスは事実十字架に架けられ、死から甦られた事実を証言するのです。聖霊を受ける、聖霊の力に満たされることはこの経験を言うのです。やがて迫害と弾圧が続くのですが、クリスチャンたちはこの証言を堅く確信して宣教したのです。彼らは気和て過酷な迫害に中で殉教するのです。クリスチャンになり、証人となれば殉教が待っていると言う悲劇が襲うのですが、聖霊に満たされた人々は妥協をしなかったのです。いつしか「証人」マルトウスは語意が変わりMartyr(英語)マーター「殉教者」となるのです。イエス様を信じる信仰の徹底こそ、聖霊の力であるのです。キリストの言葉に生きるときの約束は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7,8)と言われているのです。だからこそ。
第三に、「キリストの言葉に生きる」ことの集約は、キリストの祈り、キリストの願い。キリストの勧めを生きることであるのです。その集約は「全世界に出て行って福音を伝える」(マルコ16:15.)「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」ことであるのです。初代のクリスチャンたちは何をもさておいてイエス様の言葉に従い生きたのです。私たちも聖霊に満たされて、その「喜び」に満たさる時、活けるキリストの言葉、御心に生きる者となるのです。
使徒パウロは言います「1神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(テモテⅡ4:1,2)イエス様の恵みを聖霊の力で確信した人は、聖霊の喜び、キリストにある喜びに満たされるのです。その「喜び」、その「恵み」、その「祝福」を語らざるを得ないのです。それが福音の宣教であるのです。

「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(コリントⅠ9:16)福音を伝えなければ{不幸}であるのです。福音を伝える。キリストの喜び、救いを伝えなければ惨めであり不幸なのです。だからこそ「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(コリントⅠ9:22,23)

 

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